産業革命
『鉄と石炭』(1855-1860) ©Public domain

産業革命


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産業革命 (Industrial Revolution)
農業基盤の社会から工業を基礎とした資本主義経済体制への移行とそれにともなう社会の変化。18世紀後半の英国で最初におこり、19世紀以降各国に広まった。第2次・第3次産業革命まで含めた長期間の変化の過程は工業化とも表現。

産業革命

  • 産業革命:農業基盤の社会から工業を基礎とした資本主義経済体制への移行と、それにともなう社会の変化。18世紀後半のイギリスで最初におこり、19世紀以降各国に広まった。第2次・第3次産業革命まで含めた長期間の変化の過程は、「工業化」とも表現される。18〜19世紀の石炭・蒸気を動力源におこった変化を第1次産業革命と呼ぶが、一方で資本主義社会の確立は、労働問題やさまざまな社会問題もうみだした。なお、革命とは急激な変化を指す概念であるから、長期間かけての工業化はそれに値せずとして、「産業革命とは呼べない」とする考え方もある。
  • 第2次産業革命:1870年代から始まった、電力・石油を新動力源とする重化学工業を中心とした産業技術の革新。中進国は、統一されたドイツと、南北戦争後に国民国家の形成を開始したアメリカであった。
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  • 機械の発明・応用による生産機構の画期的変革。英国では18世紀後半から進展。日本では政府の殖産興業から企業勃興を経て、日清戦争前後に蒸気動力化による製糸・紡績などを中心に産業革命が進む。さらに日清戦争後の経営や資本主義恐慌をふまえ、日露戦争前後には電力による重工業部門の産業革命を達成。
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世界史対照略年表(1700〜1900)詳細版
世界史対照略年表(1700〜1900)詳細版 ©世界の歴史まっぷ

時代背景

市場を拡大した工業化

世界を一体化させた産業革命

産業革命は、大西洋の三角貿易の行き詰まりへの対応から始まった。18世紀に西インド諸島で砂糖生産が大規模化すると、天然痘の流行で先住民が絶滅していたこともあって、アフリカ西岸との奴隷貿易の規模が増し、ヨーロッパから多くの手工業製品の輸出がないと貿易のバランスが維持できない状態になった。
しかし、ヨーロッパの代表的工業製品の毛織物は、亜熱帯、熱帯では歓迎されなかった。そこでイギリス東インド会社は、ムガル帝国から綿布を輸入し、大西洋市場に持ち込んだ。強く、吸湿性に富む綿布は大人気で、急激に販路を拡大していった。
しかしイギリスには、大量の綿布を買い付けるためのがない。イギリス商人は、西インド諸島で綿花を栽培させ、それを奴隷船でリヴァプールに運び、後背地ランカシャーで加工し始める。綿布は、つくればつくるだけ売れた。1760年代に織布工程はジョン・ケイの飛び杼の利用により倍化されたが、綿花から糸を紡ぐ工程は、手作業だったために糸の供給が間に合わなかった。
そこで機械の発明に懸賞金がかけられ、素人の発明が相次ぐことになる。とくにリチャード・アークライトは、水車を動力とする水力紡績機を発明し、細くて強い糸の量産に貢献した。
しかし、積み出し港に近い平地では水車が使えない。そこで、トマス・ニューコメンが炭鉱の排水用につくっていた大掛かりで非能率的な蒸気機関がジェームズ・ワットにより改良され、機械の動力として導入された。産業革命の始まりである。

蒸気機関と機械の組み合わせからなる工場群は都市を農地を凌ぐ生産の場に変え、社会の在りようを一変させた。都市はかたちを変え、急激に肥大化していった。やがて、ジョージ・スチーブンソンにより小型化した蒸気機関を台車に据える蒸気機関車が実用化され、1830年にはリヴァプールとマンチェスターの間に最初の本格的鉄道が開通した。鉄道は、またたくまにヨーロッパ、アジア、アメリカに広まっていき、19世紀の半ばには、鉄道網は地球規模で都市を結んだ。システ1869年には、スエズ運河と大陸横断鉄道が完成し、高速輸送網による世界の一体化が実現する。海上で、帆船が蒸気船に変わったのも1870年代のことであった。

イギリスの産業革命 産業革命時代のイギリス地図
産業革命時代のイギリス地図 ©世界の歴史まっぷ

蒸気機関、機械、鉄道、蒸気船、改良された銃火器で力を強めたヨーロッパ諸国は、市場の拡大を目指してアジアに進出した。アヘン戦争で清王朝がヨーロッパ市場に組み込まれ、セポイの反乱を利用して、イギリスはインドを植民地化する。

1870年代以降の第二次産業革命で鋼鉄、機械、化学などの重工業が中心になるなかで、ドイツ、アメリカが「世界の工場」イギリスを追い抜いた。ヨーロッパ諸国は長期の不景気(大不況)に苦しめられたこともありアジア・アフリカへの進出を強め、たった20年間でアフリカは分割された。イギリスの3C政策とドイツの3B政策の対立を中心に、列強が植民地争いに狂奔する帝国主義の時代である。

参考 ビジュアル 世界史1000人(下巻) 宮崎正勝

欧米における近代社会の成長

世界史対照略年表(1300〜1800)
/>世界史対照略年表(1300〜1800) ©世界の歴史まっぷ

産業革命

世界史の転換点

産業革命以前、すでに都市はあるが大半の人々は農村に住み、大きな工場も鉄道もなく、仕事は家族でおこない、地域の人々は助け合いながら生活していたが、生産の能率は高くなく、生活はきわめて厳しかった。寿命も短く、人口は増加せず、女性や使用人をはじめ、多くの人々が政治的にも社会的にも一人前には扱われず、選挙権や財産権を認められていないことが多かった。良い意味でも悪い意味でも、産業革命こそは現代の世界が生まれてきたきっかけであった。

欧米における近代社会の成長年表

関連事項
1700北方戦争(〜1721)
1701スペイン継承戦争(〜1713)
1707グレートブリテン王国成立
1714英、ハノーヴァー朝(〜1917)
1740普、フリードリヒ2世(プロイセン王)即位
オーストリア継承戦争(1748)
1756七年戦争(〜1763)
1763パリ条約
このころイギリスで産業革命始まる
1769英、ジェームズ・ワット、蒸気機関改良
1772第一回ポーランド分割
1773ボストン茶会事件
1775アメリカ独立戦争(〜1783)
1776アメリカ独立宣言発表
1783
パリ条約
1789フランス革命勃発、ワシントン、初代大統領就任
1792仏、第一共和制
1794テルミドール9日のクーデタ
1795第三回ポーランド分割
1799ブリュメール18日のクーデタ
1802アミアンの和約
1804ナポレオン、皇帝即位(第一帝政)
1812ナポレオンのロシア遠征
1814ナポレオン退位、ウィーン会議
イギリスの産業革命

このように、本来産業革命とは、18世紀の後半からイギリスで経済活動に機械や動力が導入され、機械制工場が展開したこと、また、これをきっかけに経済のあり方や社会構造が根本的に転換し、人々の生活も一変したことをさす用語であった。

また、それは結果として、伝統的な農業社会に変わって工業社会が出現したという意味で、工業化とも呼ばれている。ただし、工業化の過程は、地球的規模では今も進行しつつあるといえる。

こうして、資本主義はすでに16世紀ころから明確なかたちをとりはじめていたとはいえ、産業革命にともなって性格を少し変えながらいっそう発展した。資本家のなかでも、商人や農業経営者にかわって、工場経営者などが有力となる産業資本主義の時代が到来したのである。

「資本主義」とは、機械や土地のような生産手段(資本)を所有する「資本家」が「労働者」を賃金でやとって市場むけの生産をおこなうこと、ということができる。また、社会的にも彼らが支配権をもっている状態のことをさすことが多い。

産業革命は、なぜ最初にイギリスでおこったのだろうか。ひとつの原因は、対外的なものでる。すなわち、七年戦争によってイギリスが世界商業の覇権を握り、広大な植民地帝国を形成したことであった。とくに、イギリスは奴隷貿易を軸に、自国と西アフリカ、カリブ海や北米南部を結ぶ「三角貿易」を形成して、大きな利益をえた。この収益が、産業革命の資本源となる一面もあった。

しかもその際、アフリカむけの輸出品には綿布が含まれており、カリブ海からの輸入品には砂糖のほか綿花が含まれていたため、ロンドンとならぶ奴隷貿易の中心、リヴァプールに近いマンチェスター周辺に綿工業が発達したのである。

他方、イギリスの国内事情も有利に作用した。早くから第2次囲い込みや、新農法の導入などの農業改良が進んでいた(農業革命)。このため人口が18世紀中ごろからは急増しはじめ、労働力にも不足がなかった。土壌のぐあいで農業改良がむずかしかった西北部などでは、すでに18世紀中ごろまでに毛織物業を中心に問屋制度による手工業(「プロト工業」という)やマニュファクチュア(工場制手工業)が成立し、工業生産の伝統もきずかれていた。

イギリスでは、こうして産業革命に必要な資本や労働力が準備された。このほか、禁欲と勤勉をすすめ、世俗の職業を重視したプロテスタントの信仰(ピューリタニズム)や科学革命による自然科学の発達など、知的・精神的な条件も整えられた。それによって、遅刻をしないで時間を正確にまもる近代的な労働者と、合理的な経営を行う経営者が、生みだされたからである。

ノーフォーク農法

17世紀後半から、イギリスでは東部を中心に、冬に家畜用飼料としてカブを栽培するノーフォーク農法が普及した。この農法によって、冬季にもカブが生鮮飼料となったので、家畜を屠殺とさつする必要がなくなり、家畜そのものと家畜の糞尿を肥料とした穀物の収量が激増した。この新農法を普及させるのに力があったチャールズ・タウンゼンド(第2代タウンゼンド子爵)は、「カブ」のタウンゼンドとあだ名された。

新農法を採用するために、囲い込みがおこなわれることもあった。この農法で、東部の穀物生産がきわめてさかんになったため、地質的にこれを採用できなかった西北部などは、牧畜と手工業に重点をおかざるをえなくなった。

しかし、産業革命が始まって雇用が増したことと、ジェンナーによる種痘法の発見などの医療の向上が重なって人口が激増すると、イギリスは再び穀物の第輸入国となった。

機械化と工業制度

機械をつくる工業(機械工業)自体が機械化され、新たな技術体系が確立、鉄道網が全国をおおい市場が完全に統一されてイギリスの産業革命は、1850年前後にほぼ完成した。1825年、蒸気機関車による鉄道が開通し1851年、世界に先駆けて産業革命を完成したイギリスの技術と経済力を誇示するロンドン万国博覧会を開催した。

産業革命の世界的影響

1825年、イギリスはそれまで禁止していた機械の輸出を解禁した。このため、19世紀前半には産業革命の波は西ヨーロッパ諸国に広がり、やがてアメリカロシア日本にもおよんだ。これらの諸国では、安価なイギリス商品と競争する必要もあり、強力なイギリスの軍事力に対抗する必要もあったから、イギリスの産業革命を模倣して自国にも産業革命をおこそうと、意識的に努力するようになった。明治時代の日本の「富国強兵」策は、その一例である。

こうした国の中では、ベルギーフランスがもっとも早くその目標を達成する。すなわち、両国の産業革命は1830年ころから繊維産業を中心に展開した。フランスは、18世紀にはイギリスにくらべても、それほど経済発展が遅れていたわけではないが、1786年の英仏通商条約(イーデン条約)で両国間の貿易が自由化され、イギリス製品が大量に流れこんだことと、その後のフランス革命による混乱で、なかなか本格的な産業革命に入れなかったのである。

ドイツの産業革命も、ほぼ同じころライン川流域で始まったが、ドイツの場合はむしろ19世紀後半に成長した重化学工業にその特徴があった。アメリカでは19世紀初めから綿工業が発達したが、本格的な産業革命は南北戦争後におこった。ドイツとアメリカの産業革命によって、1870年代からイギリスは「世界の工場」としての地位を失った。日本でも、日清戦争や日露戦争をきっかけとして、産業革命といえるような変化がおこった。

ところで、イギリスをはじめこれらの国の産業革命は、アジア・アフリカ・ラテンアメリカの各地を原料や食料の供給地・製品の市場としながら進行したため、これらの地域と産業革命を経験した諸国との経済格差が拡大し、今日の南北問題の起源となった。イギリスで綿工業がさかんになると、カリブ海地方やアメリカ南部で、黒人を奴隷として使役する綿花栽培がさかんになったし、世界有数の綿織物工業を誇ったインドも、単なる原料である綿花の輸出地にされてしまったのである。

都市化進展と労働者階級

イギリスでは、産業革命はランカシャー地方のマンチェスターや中部地方のバーミンガム、スコットランドのグラスゴーのような工業都市をはじめ、リヴァプールのような港町など、さまざまな都市を劇的に発展させた。こうして都市人口の比率が急速に高まり、生活様式も変化した。その結果、失業や貧困・伝染病など多くの社会問題が生じた

また、産業資本主義の発達によって、共通の利害をもつひとつの階級としての意識をもった「労働者階級」が成立した。19世紀のイギリス社会は、おおまかにいえば、彼らと資本家階級地主階級(地主貴族)の三大階級によって構成されるようになった。

産業革命(イギリスを中心とする技術進歩のあゆみ)

発明者技術
1705トマス・ニューコメン蒸気機関を開発
1709エイブラハム・ダービー2世コークス製鉄法を開発
1733ジョン・ケイ飛び杼を発明
1764ジェームズ・ハーグリーブスジェニー紡績機を発明
1769ジェームズ・ワット蒸気機関車の改良に成功
1769リチャード・アークライト水力紡績機の特許取得
1779サミュエル・クロンプトンミュール紡績機を発明
1784ヘンリー・コートパトル製鉄法(攪拌精錬法)を開発
1785リチャード・アークライト特許取り消し
1785エドモンド・カートライト力織機を発明
1796エドワード・ジェンナー種痘接種に成功
1807ロバート・フルトン(米)汽船発明
1814ジョージ・スチーブンソン蒸気機関車の試運転に成功
1825[ストックトン・アンド・ダーリントン鉄道]最初の蒸気機関車による鉄道開通
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世界史B

10.近代ヨーロッパ・アメリカ世界の成立

44. 産業革命
イギリス産業革命図
イギリス産業革命図 ©世界の歴史まっぷ

日本史

幕藩体制の動揺

幕府の衰退

列強の接近
19世紀前半列強とその領土地図
19世紀前半列強とその領土地図 ©世界の歴史まっぷ

18世紀後半は、世界史の新たな転換期であった。イギリスは17世紀半ばのピューリタン革命(1642〜49年)や名誉革命(1688年)により市民革命を達成し、アメリカは1776年に独立宣言を公布し、フランスでは1789年にフランス革命が始まるなど、欧米諸国では近代市民社会の発展が進んだ。また、産業革命も始まり、それを基盤としてイギリス・フランス両国の世界的な規模での植民地争奪戦が行われた。ロシアは、シベリア開発に積極的に取り組み、アメリカも19世紀になると西部の開拓を進め、太平洋岸に進出した。このように世界情勢の大きな変動が始まり、欧米列強の勢力はしだいに東アジアに接近し、ロシア船やイギリス船が日本近海に姿を現すようになった。日本を取り巻く東アジアの秩序は動揺し始め、幕府は従来の外交体制の変更を迫られる重要な時期を迎えた。

近代国家の成立

近代産業の発展

産業革命の達成
開花養蚕ノ図
明治10(1877)年代、殖産興業のため、宮中で皇后が率先して養蚕されていたことは広く知られており、多くの絵師がその模様を想像で描いた。 開花養蚕ノ図(楊洲周延画/明治19(1886)年)©世界の歴史まっぷ

日清戦争後、政府は清国から得た巨額な賠償金をもとに、ぼう大な経費を投入して、軍備の拡張と産業の振興を中心に、いわゆる戦後経営を推進した。その影響で、経済界には空前の好景気が訪れ、企業の勃興が相つぎ、著しい会社設立ブームの様相を呈した。1900(明治33)年から翌年には資本主義恐慌が訪れ、銀行をはじめ産業界に大きな影響を与え、企業の倒産や操業短縮が行われたが、政府の指導によって日本銀行は普通銀行を通じて盛んに産業界に資金を供給し、また、政府は日本勧業銀行·府県の農工銀行・日本興業銀行などの特殊銀行の設立を進め、産業資金の調達と供給にあたらせた。

19世紀末、欧米先進諸国は金本位制を採用していたが、アジアでは、日本·中国など多くの国でなお銀本位体制が主流であった。しかし、金銀相場の変動などから貿易関係は不安定で、欧米諸国との貿易の発展や外資導入をはかるためにも不便であった。そこで政府は金本位制の採用をはかり、清国からの賠償金を金準備にあて、1897(明治30)年には貨幣法を制定して金本位制を実施した。

このようにして、日清戦争前から紡績業や製糸業など繊維産業部門で始まっていた産業革命は、戦後になるとさらに著しい発展をみせ、その結果、繊維産業部門を中心に資本主義が成立するにいたったのである。

産業革命

機械制生産がそれまでの家内工業・手工業生産を圧倒して、工業生産力が飛躍的に増大し、資本主義が支配的な生産様式及び経済体制となる社会·経済上の変革をいう。18世紀末にイギリスにおこり、19世紀半ばころまでに欧米先進諸国で達成された。日本では1900(明治33)年ころまでに、繊維産業部門を中心に産業革命が一応達成されたが、重工業部門はかなり立ち遅れていた。なお、最近、イギリスなどでは、18世紀末イギリスでおこった「産業革命」による経済的、社会的変化は「革命」と呼べるほど急激で大きな変化ではなかったとして「産業革命」という用語の使用を避ける学者たちもでてきている。

工業

紡績業の発達

年次工場数錘数生産高輸出高輸入高
18892821567
1891363541450.157
18934038221511.065
18954758136711.849
18976597151114054
189978119075734130

1880年代末から企業熱は急速に盛んになり、各地に新しい会社·工場がつくられ始めた。1886(明治19)年にはわずか53だった原動機使用の工場は、1890(明治23)年の最初の恐慌にもかかわらず1891(明治24)年には495の多きにのぼり、日清戦争の勝利はその飛躍的発展をもたらした。なかでも紡績業の発展はめざましく、左の表が示すように、綿糸生産嵩は1889〜99年の間に11倍強となった。

原料の綿花を中国·インド・アメリカなどから輸入して盛んに綿糸生産にあたったが、輸入綿糸を駆逐して国内の需要を満たしたばかりでなく、綿糸輸出税綿花輸入税の撤廃(1894年と1896年)など、政府の積極的奨励策のもとで、中国·朝鮮への輸出を急速に増大し、輸出高は1897(明冶30)年には輸入高を完全に上回った。

また、製糸業は最も重要な輸出産業として発展し、同じ10年間に生産高はほぼ2倍になり、1894(明冶27)年には器械製糸による生産高が在来の座繰製糸の生産高を上回り、大規模な製糸工場もつくられるようになった。製品の生糸は、フランス産・イタリア産・清国産の生糸との国際競争に打ち勝って、アメリカをはじめヨーロッパ諸国にも盛んに輸出された。原料は国産の繭を用いたので、製糸業は外貨の獲得という点では、最も貢献度が高かった。そのほか絹織物·綿織物·製紙・製糖業などの軽工業部門でも、しだいに機械制生産がそれまでの手工業生産を圧倒していった。とりわけ綿織物業の部門では、1897(明治30)年に豊田佐吉とよださきち(1867〜1930)らの考案した国産力織機が、それまで農村で行われていた手織機による問屋制家内工業生産を、小工場での機械制生産に転換させていった。

ー方重工業部門はまだ立ち遅れていた。政府は官営による軍事工業の拡充を進めたが、民間産業としては、政府の造船奨励策のもとで、三菱長崎造船所など二、三の大規模な造船所が発達したほかは、みるべきものは少なかった。とくに重工業の中心として、軍事工業の基礎となるべき鉄鋼の生産体制は貧弱で、軍備拡張や鉄道敷設の必要などにより日清戦争後急増しつつある需要の大部分を外国からの輸入に頼っていた。そこで政府は鉄鋼の国産化をめざして大規模な官営製鉄所として八幡製鉄所を設立した。八幡製鉄所はドイツの技術を取り入れて、1901(明治34)年開業し、清国の大冶鉱山の鉄鉱石を原料とし、国産の石炭を用いて鉄の生産にあたった。当初は技術的困難に悩まされたが、日露戦争後にはようやく軌道に乗り、国内の鉄鋼のほとんど70〜80%を生産した。しかし一般的には、重工業部門は軽工業部門に比べて立ち遅れ、とくに民間企業は貧弱で、その本格的発展は日露戦争後に待たねばならなかった。

交通・運輸

近代産業の発展や軍事輸送の必要から、日清戦争後に交通・運輸機関も著しい発展をとげた。1896(明治29)年には門司・長崎間、1901(明治34)年には神戸・下関間の鉄道が民間の手で全通した。総営業キロ数も飛躍的に伸びたが、とくに目立つのは、日清戦争後も引き続き民営の鉄道が大いに発達したことで、1902(明治35)年には全延長の約70%を私鉄が占めたのである。なお、京都・名古屋・東京などの大都市では1890年代から1900年代につぎつぎと市街電車が開通し、市民の足として親しまれた。

海運業では、造船奨励法航海奨励法の制定(ともに1896年)などの政府の保護·奨励策のもとで、日本郵船会社がインド(ボンベイ)航路・北米(シアトル)航路・欧州(アントゥェルペン)航路、蔽州(メルボルン)航路を、東洋汽船会社も北米(サンフランシスコ)航路を開設するなど、外国向けの遠洋航路がつぎつぎと開かれていった。

財政・金融

財政面では軍備拡張や産業振興·教育施設の拡充・台湾植民地経営など、いわゆる「戦後経営」のためにばく大な経費を必要としたので、日清戦争後、財政は膨張の一途をたどった。そのため国債発行・地租増徴のほか、営業税·砂糖税・麦酒税の新設、酒・醤油税の増徴など相つぐ税の新設・増徴が行われた。その結果、税収入に占める地租の割合は、大幅に低くなり、明治初期の地租中心の税制度から間接消費税中心の税制度がととのえられた。

人口と職業
1872(明治5)年の総人口は3311万人で有業人口の81.4%が農林業、4.8%が鉱工業、5.5%が商業であった。1900(明治33)年になると内地の総人口4482万人、有業人口の66.6%が農林業、13.5%が鉱工業、8.6%が商業であった。このように農林業人口の減少、鉱工業・商業・交通業人口の増加は明らかな対照をみせている。
貿易

貿易面では、まずその総額が日清戦争後、すばらしい勢いで増加した。1902(明治35)年は1887(明治20)年の5倍以上にもなっている。つぎに目立つことは1882(明治15)年以来の輸出超過が、日清戦争後再び輸入超過に変わっていったことである。これは、綿花などの工業原料品や機械・鉄などの重工業製品の輸入が増大したためと考えられる。

輸出入品の内容をみると、日清戦争前の輸入品は綿糸・砂糖·毛織物などの加工品が多く、輸出品は生糸・茶・水産物・銅など日本特産の食料や原料品が多かった。それが日清戦争後になると、輸入品では綿花などの原料品が目立つようになり、輸出品では綿糸が生糸についで第2位となるなど加工品が増えており、日本が近代工業国ヘ一歩を進めたことが明らかになっている。輸出の主な相手国は、アメリカが第1位で、第2位は清国であった。

農業

こうした資本主義の発展は、農業面にも大きな影響を与えた。工業に比べると、米作を柱とする零細経営が中心であった農業の発達は遅々としていたが、松方財政の影響による不況から抜け出した1890年代になると、米価をはじめ農産物の価格も上昇し、農村は比較的安定した発展を示すようになった。大豆粕だいずかすなどの金肥きんぴの普及や品種改良 にみられる農業技術の向上によって、米の生産高は徐々に上昇したが、近代産業の発展による非農業人口の増大と生活水準の向上は、農産物とくにこめの国内需要を増大させた。そのため米の供給はしだいに不足がちとなり、日清戦争後には朝鮮などから毎年米を輸入するようになった。

政府は1893(明治26)年、農事試験所を設置して、稲など農作物の品種改良に力を注いだ。

交通機関の発達・外国貿易の隆盛などに伴う商品経済の農村への浸透は、農村の自給体制をつき崩して、商業的農業をいっそう推し進めた。生糸の輸出に剌激されて桑の栽培や養蚕が盛んになったが、反面、自家用衣料の生産はほとんど行われなくなり、また、安価な外国産の原綿が原料にされたため、国内の綿花生産は衰えた。商業的農業の発展に応じて農業協同組合も芽ばえ、1900(明治33)年には産業組合法が成立して信用・販売·購買・生産についての協同組合がつくられることになった。

そうしたなかで農民層の分解はさらに進み、1880年代から90年代にかけて小作地率は増加を続けた。大地主の間では、借金などのために農民が手放した農地を買い集め、小作人にこれを貸付けて耕作させ、自らは耕作を離れて、いわゆる寄生地主となる傾向が強まった。地主は小作料をもとでに公債や株式に投資したり、自ら企業をおこしたりして、しだいに資本主義との結びつきを深めるとともに、地方有力者として地方自治体の役職についたり、議員になるなど、日本の政治の基底をかたちづくったのである。

資本主義の発展
日本資本主義の特色

日本の資本主義は欧米先進諸国が200〜300年を要した過程を、せいぜい半世紀というきわめて短期問で達成し、急速に成立・発展をとげた点に大きな特色がある。そして、資本主義の成立と発展の過程におけるめざましい「高度成長」は世界史上の驚異的な現象といえよう。もとより、こうした急速な発展は、政府の主導による近代産業育成政策のもとですでに産業革命を終わっていた欧米先進諸国から、高い水準の経済制度、技術・知識・機械などを日本に導入し、移植することによってもたらされたものである。産業化の推進には巨額の経費を必要としたが、産業革命達成への過程では、若干の例外を除けば、ほとんど外国資金に頼ることなく、日本国内でその資金が調達されたことも注目に値する。こうした歴史的条件のもとで、日本の急速な資本主義の形成が、その「副作用」として工業と農業、あるいは大企業と中小企業の格差(二重構造)、劣悪な労働条件、さまざまな公害や環境破壊など、いろいろな「ひずみ」を生んだことも否定できないし、それらを利用することによって日本は急速な経済発展をとげた、という見方も成り立つかも知れない。しかし、これらの二重構造や「ひずみ」は、後発的に資本主義をめざす多くの国々におおむね共通の現象であり、しかも、日本の「高度成長」はきわめて例外的であった。そのことを考えれば「ひずみ」や二重構造を理由とする見方では、「高度成長」の秘密を解き明かせないであろう。「高度成長」の秘密をどこに求めるかについては、さまざまな考え方があるが、寺子屋教育の伝統を引き継いだ学校教育による国民教育の普及がもたらした国民の読み書き能力の高さ、教育制度を通じて中下層の庶民が国家の指導階層にまで上昇し得るようなタテの社会的流動性の高さ、「日本人の勤勉性」、宗教的束縛の欠如、そして、国民の大部分が同一民族からなり、同一言語を用い、宗教的対立や民族紛争による流血もあまりないという状況のもとでの日本社会の同質性の高さなど、江戸時代以来の日本の歴史的条件の重要性を考慮することが必要であろう。

社会問題の発生

明治の中期以後、資本主義の発達がめざましくなり、工場制工業がつぎつぎに勃興するに伴い、賃金労働者の数も急増した。彼らの多くが農家の次男・三男や子女で貧しい家計を助けるためのいわゆる「出稼でかせぎ型」の労働者であった。しかも、産業革命の中心となった繊維産業部門の労働者は、大部分が女性であり 、重工業や鉱山部門では男性労働者が多かったが、全体として女性労働者の比重が大きかったのである 。これらの労働者は、同時代の欧米諸国に比べると、はるかに低い賃金で長時間の過酷な労働に従事し、また悪い衛生状態・生活環境におかれるなど、労働条件は劣悪であった。

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