ヘンリー7世(イングランド王)(
A.D.1457〜A.D.1509)
テューダー朝初代イングランド王(在位1485〜1509)。ランカスター家の血をひくヘンリー・テューダー(リッチモンド伯)は、衆望を担ってヨーク朝の新王リチャード3世(イングランド王)と戦い、ボズワースで勝利してヘンリー7世(イングランド王)としてテューダー朝を創始。ヨーク家の王女エリザベスと結婚し、両派の和解を成立させてバラ戦争の混乱を収拾した。星室庁裁判所を改組して治安の維持に努めるなど、イギリス絶対王政の基礎をつくった。
ヘンリー7世(イングランド王)
テューダー朝を創始。王権強化
テューダー朝の創始者。リチャード3世(イングランド王)を破りバラ戦争を終結。結婚により、ヨーク家、ランカスター家を結束させた。財政を健全化し、貴族を圧迫。イギリス絶対王政の基礎をつくった。
ヨーロッパ世界の形成と発展
西ヨーロッパ中世世界の変容
バラ戦争とイギリスの集権化
1455年、エドワード3世(イングランド王)の曾孫ヨーク公リチャード(のちのリチャード3世(イングランド王))は、ランカスター家に対してヨーク家の王位継承権を主張して決起した。百年戦争のために大量の家臣団を抱えて不満を持つ有力貴族は、それぞれランカスター家ないしヨーク家について、散発的ながらも30年にわたり戦いをくりひろげた。戦況はヨーク家の優勢に展開し、リチャードの戦死後その子エドワード4世(イングランド王)によりヨーク朝が開かれた(1461)。
その後ランカスター派は一時勢力を盛り返し、ヘンリー6世(イングランド王)を復位させた(1470〜1471)が、まもなく態勢を立て直したヨーク派の前に敗れ去った。しかしエドワード4世(イングランド王)の死(1483)後内乱が再発、ランカスター家の血をひくヘンリー・テューダー(リッチモンド伯)は、衆望を担ってヨーク朝の新王リチャード3世(イングランド王)と戦い、ボズワースで彼を敗死させた(1485)。まもなく伯はヘンリー7世(イングランド王)を称し、テューダー朝(1485〜1603)を開いた。そして、翌年ヨーク家の王女エリザベスと結婚し、両派の和解を成立させた。
ヘンリー7世(イングランド王)は、封建貴族の勢力を打破するために家臣団を解散、貨幣と度量衡を統一して商品流通の円滑化をはかったほか、国王直属の特別裁判所として星室庁を設置するなど、集権化を推し進めた。こうして、イギリスはテューダー朝の成立とともに中世史に終わりを告げ、絶対王政の時代に移行していった。
ヨーロッパ主権国家体制の展開
ヨーロッパ主権国家体制の形成
イギリス絶対王政の確立と社会
中世末のイギリスでは、フランスとの百年戦争と、つづいておこった大きな内乱であるバラ戦争によって、由緒正しい封建貴族の多くが没落した。これにかわって、騎士階層や商人・富農などからでたジェントリ gentry と呼ばれる地主階級が勢力を強めた。
バラ戦争の混乱を収拾して登場したテューダー朝のヘンリー7世(イングランド王)(位1485〜1509)は、星室庁裁判所を改組して治安の維持に努めるなど、絶対王政の傾向を強めた。その際、彼は官僚としてジェントリを重用して、封建貴族を牽制した。以後のイギリス社会では、ジェントリと貴族が共にジェントルマン gentleman と呼ばれ、政治・社会・文化などあらゆる面で主導権を握るようになる。
中央の議会では、貴族が貴族院(上院)、主としてジェントリの代表が選挙で選ばれて庶民院(下院)を構成し、地方の政治も貴族や治安判事などに任命されたジェントリが牛耳ることになった。このようなジェントルマンの権威は、少なくとも産業革命までは変わることがなかった。
近代ヨーロッパの成立
ヨーロッパ世界の拡大
新大陸の発見
コロンブスの数回の航海と前後して、多くの探検者が大西洋を横断した。ヘンリー7世(イングランド王)の後援をうけたイタリア人カボット父子(父ジョヴァンニ・カボット1451頃〜1498頃、子セバスチャン・カボット1476〜1557)の北米沿岸探検(1497〜1498)、ビセンテ・ピンソン(1460頃〜1524)のアマゾン川発見(1499〜1500)、ペドロ・アルヴァレス・カブラルのブラジル到達などである。
ヘンリー7世(イングランド王)が登場する作品
ホロウ・クラウン嘆きの王冠-リチャード三世 登場人物とあらすじ – 世界の歴史まっぷ