資本主義
生産手段を有する企業や個人が資本を投下し、労働者を雇って商品を生産・流通させ、資本の拡大(利潤)を追求する経済システム。産業革命以降、世界規模で急速に拡大、確立した。日本では1880年代半ば以降の産業革命により定着。
資本主義
労働力まで商品化された経済体制。生産手段を持つ資本家が利益目的で賃労働者を雇って商品生産を行う。日本では1880年代半ば以降の産業革命により定着。
資本主義体制:生産手段を有する企業や個人が資本を投下し、労働者を雇って商品を生産・流通させ、資本の拡大(利潤)を追求する経済システム。産業革命以降、世界規模で急速に拡大、確立した。
世界史
11章ヨーロッパ主権国家体制の展開
イギリス立憲政治の発達
王政復古から名誉革命へ
市民革命
「市民革命」とは、封建国家から、資本主義の発展を全面的に促進する近代国家への転換を決定的にした政治体制の変革をいう。つまり、絶対王政のもとで力を蓄えたブルジョワジーが、みずから政権を握った出来事である。封建制度にもとづく土地所有のありかたが廃止され、私有財産制度が確立すること、農奴制度が廃止されることなどを目印とする。
しかし、実際にどの事件がそれにあたるかについては、いろいろな意見がある。イギリスのこの2つの革命、フランス革命、アメリカ独立革命、ドイツの三月革命、ロシアの第1次革命(1905)などが、それにあたると考えられてきたが、日本については、明治維新がそれにあたるかどうかをめぐって、戦前から大論争が展開されてきた。
17〜18世紀のヨーロッパ文化
民衆の文化
とくにイギリスでは、17世紀ころから狩猟法が強化され、野生の小動物の多くがジェントルマン階級の趣味である「狩猟」の対象とされ、一般民衆による狩猟が禁止された。しかし、猟に生活のかなりの部分を頼っていた民衆はこれを無視したため、大きな社会問題となった。このほか、密輸や飲酒の習慣など、伝統を守る民衆の日常行動や文化は、支配階級の近代的で資本主義的な考え方と対立することが多くなった。とくに、イギリスでいうエールハウス(現在のビアホール)やパブ(居酒屋)などでの飲酒や熊いじめなどの残酷な見世物、ギャンブルなどは、支配階級からは厳しく批判されたが、民衆は容易にこれを捨てなかった。
12章欧米における近代社会の成長
産業革命
イギリスの産業革命
本来産業革命とは、18世紀の後半からイギリスで経済活動に機械や動力が導入され、機械制工場が展開したこと、また、これをきっかけに経済のあり方や社会構造が根本的に転換し、人々の生活も一変したことをさす用語であった。また、それは結果として、伝統的な農業社会に変わって工業社会が出現したという意味で、工業化とも呼ばれている。ただし、工業化の過程は、地球的規模では今も進行しつつあるといえる。こうして、資本主義はすでに16世紀ころから明確なかたちをとりはじめていたとはいえ、産業革命にともなって性格を少し変えながらいっそう発展した。資本家のなかでも、商人や農業経営者にかわって、工場経営者などが有力となる産業資本主義の時代が到来したのである。
都市化進展と労働者階級
産業資本主義の発達によって、共通の利害をもつひとつの階級としての意識をもった「労働者階級」が成立した。19世紀のイギリス社会は、おおまかにいえば、彼らと資本家階級・地主階級(地主貴族)の三大階級によって構成されるようになった。
フランス革命とナポレオン
フランス革命への問い
フランス革命は何をもたらしたか。この問いも多様な答えをひきだす。さまざまな諸事件の連続の結果、旧制度はくつがえされ、資本主義の発達が促進され、ブルジョワジーが権力の座についた。フランス革命は、「ブルジョワ革命」(市民革命)であるというのも答えのひとつである。
13章欧米における近代国民国家の発展
ナポレオンの大陸支配が崩壊し、変わって正統主義と各国の勢力均衡を原則とする保守的なウィーン体制が19世紀はじめに生まれた。この体制は、各国の自由主義や国民主義(ナショナリズム)運動を抑圧したことから、騒乱が頻発した。1810〜20年代にかけてラテンアメリカやギリシアで独立運動が展開され、フランスの七月革命(1830)・二月革命(1848)とその影響をうけた各国の革命運動をへて、ウィーン体制は動揺・崩壊した。一方、イギリスは「世界の工場」としての経済的優位を背景に、いち早く国内の自由主義的改革や外交を実行し、ブルジョワジーが主導する社会に転換した。
ヨーロッパの国際関係に大きな変化がおきるのはクリミア戦争(1853〜56)からである。この戦争によってオーストリアとロシアの両国の協調関係にヒビが入り、バルカン半島方面での対立が明確になったことから、イタリアやドイツの統一運動に有利な状況が生まれ、前者は1861年に、後者は1871年に統一を実現し、国民国家が形成された。また敗北したロシアは国内の改革の必要性に迫られ、農奴を解放して資本主義への第一歩をふみだし、ナロードニキを弾圧した。アメリカ合衆国では国内の民主化が進展し、19世紀半ばまでその領土は太平洋沿岸にまで到達した。奴隷制をめぐる問題から南部と北部が地域的に対立し、合衆国史上最大の内乱である南北戦争がおきた。この戦争は北部の勝利に終わり、北部の産業資本家の主導のもと西武の開拓が進展し、資本主義が高度化して19世紀末までに世界第1位の工業国家になった。
また各国の工業化の進展は労働運動を発生させ、生産手段の社会手段の社会化をめざす社会主義思想が誕生した。イギリスやフランスでは、人道主義的な立場や理想的な産業社会、協同組合などをとおした生活・労働条件の改善の試みがなされた。ドイツではカール=マルクスが資本主義経済の分析をとおして、「科学的」と称する社会主義を提唱した。
19世紀の欧米社会では、ブルジョワジーが政治・経済分野ばかりでなく、道徳・倫理・服装・教育・健康など社会のさまざまな分野における価値観を主導し、資本主義の本格的な展開に対応した消費社会が現出した。そして19世紀末から20世紀にかけて、女性の社会参加への要求が強まり、各国で参政権が認められるようになった。
ウィーン体制
社会主義思想の成立
ドイツではカール=マルクス Karl Marx (1818〜83)がでて、イギリスの人道主義的立場の社会主義やフランスの協同組合的または無政府主義的立場とはことなる、社会主義理論を展開した。当時の社会主義と一線を画すために共産主義と称し、ヘーゲルの弁証法を継承しつつ、唯物史観を大成し、厳密な資本主義経済の分析による社会主義社会への必然的移行を主張した。『資本論』などで資本主義社会における搾取の根源を剰余価値に求め、資本主義生産の仕組みを解明し、社会主義を科学としての水準まで高めた(科学的社会主義)。マルクス主義の要旨は、終生の友人であり協力者であったエンゲルス Engels (1820〜95)との共同による『共産党宣言』(1848年1月発表)に集約されている。
ヨーロッパの再編
ロシアの改革
1853年に勃発したクリミア戦争で、近代化したイギリス軍とフランス軍に敗北を喫したことは、ロシアの後進性を明確にし、戦争中に即位したアレクサンドル2世(位1855〜81)は1861年農奴解放令を発布した。これは原則的に領主制を廃止し、農奴の人格的自由を無償で解放するものであったが、土地に関しては有償とし、農民には資金がなかったので、政府がいわゆる「買い戻し金」を肩がわりして地主に補償金を支払い、農民は政府に対して借金を49年間の年賦で償還するという方法がとられた。さらに土地を購入してもそれは個人には属さず、ミール(農村共同体)に帰属することが多く、買い戻し金支払いにも共同体が連帯責任を負うことが決められていたので、きわめて地主に有利であり、徹底的解決策ではなかった。しかし、これはアレクサンドル2世の地方自治改革など一連の改革も合わせ、ロシア資本主義発達の出発点となった。
アメリカ合衆国の発展
独占体の形成と移民問題
戦争に勝利した北部では、国内市場が拡大したこともあって急速な工業の進展がみられ、資本主義は高度化して独占段階に入った。すなわちトラスト Trust の形成が進み、とくにロックフェラー J.D.Rockefeller (1839〜1937)が所有するスタンダード石油会社は全米の精油能力の90%以上を支配し、アメリカ最初のトラストとなった。そのほか金融と産業界を支配したモルガン J.P.Morgan (1837〜1913)財閥などアメリカの富豪が誕生したのもこのころである。
19世紀欧米の文化
文学
写実主義文学
19世紀の半ばから後半に入ると、資本主義経済の問題点がしだいに噴出するようになり、市民社会の成熟や科学技術の発展と相まって、非現実的なロマン主義の傾向にかわって、人生の現実をありのまま表現しようとする写実主義 Realism や、人間を科学的に観察し、社会の矛盾や人間性の悪の面を描写する自然主義 Naturalism が生まれた。
哲学と人文・社会科学
ドイツ
合理論と経験論を統合・批判し、啓蒙主義思想の理性万能に懐疑の目をむけたイマヌエル=カント以降、19世紀のドイツ観念論は「ドイツ国民に告ぐ」によって愛国心の高揚をめざしたフィヒテ Fichte (1762〜1814)や、ドイツ・ロマン派哲学の代表者であるシェリング Scheling (1775〜1854)によって継承され、ヘーゲル Hegel (1770〜1831)が弁証法哲学 Dialektik を提唱するにおよんで完成した。弁証法哲学は人間の存在や思惟はその内部に絶えず矛盾をはらみながらも、それより高次な次元において統一され無限に発展するという考えであり、ヘーゲル死後その学派は分裂しながらも、左派を代表するフォイエルバッハ Feuerbach (1818〜83)の唯物論と結びついて、マルクスの弁証法唯物論に発展した。マルクス Marx (1818〜83)は哲学の分野ではこの弁証法的唯物論を、歴史学では資本主義社会の分析をおこなって唯物史観を、経済学では余剰価値学説を創始して、いわゆるマルクス主義 Marxism の体系を完成し、後世の社会主義運動に多大な影響を与えた。
イギリス
イギリスでは、資本主義の進展に対応してベンサム Bentham (1748〜1832)がでて「最大多数の最大幸福」を主張して功利主義 Utilitarianism を説き、当事者会の指導層として地位が確立しつつあったブルジョワ階級の支持をえた。
日本史
8章幕藩体制の動揺
幕府の衰退
経済近代化と雄藩のおこり
19世紀に入ると、商品生産地域では問屋商人が生産者に資金や原料を前貸しして生産を行わせる問屋制家内工業がいっそう発展し、一部の地主や問屋商人は作業場を設けて奉公人(賃金労働者)を集め、分業と協業による手工業生産を行うようになった。これをマニュファクチュア(工場制手工業)といい、摂津の伊丹・池田・灘などの酒造業では早くからこのような経営がみられた。大坂周辺や京都の西陣、尾張の綿織物業、北関東の桐生・足利などの絹織物業では数十台の高機と数十人の奉公人をもつ織屋が登場してきた。農村荒廃の一方で、資本主義的な工業生産の着実な発展がみられるなど、社会・経済構造の変化は幕藩領主にとっては体制の危機であった。
19世紀に入ると、問屋制家内工業がいっそう発達し、分業と協業による手工業的(資本的)生産をおこなうマニュファクチュア(工業制手工業)がおこなわれるようになった。
農村の荒廃に対しては、小田原藩領・下野桜町領、常陸や日光山領などで行われた二宮尊徳(金次郎、1787-1856)の報徳仕法、下総香取郡長部村で行われた大原幽学(1797-1858)の性学などのように、荒廃した田畑を回復させ農村を復興させようとする試みがある。しかし、すでに商品生産や商人資本のもとで賃金労働が行われ始めている段階では、このような方法で資本主義の胎動をとめることはできなかった。これに対して、商品生産や工業の発展に積極的に対応し、それを取り込もうとしたのが、藩営専売制や藩営工場の設立であった。
9章近代国家の成立
開国と幕末の動乱
開国
17世紀後半に市民革命を達成したイギリスでは、18世紀後半から綿糸紡績業を中心に産業革命が始まり、蒸気を動力とする機械の利用によって工業生産力は飛躍的に高まった。このような政治的・経済的な動きは、ヨーロッパ各国やアメリカ大陸にも及んだ。増大する生産力と強力な軍事力を背景にして、イギリスをはじめとする欧米列強は、工場制機械工業の生産品の販売市場と原料の確保をめざしてアジアヘの進出を開始し、アジア諸国を資本主義的世界市場に強制的に組み込もうとした。その過程で、多くの国が植民地、または経済的・政治的に従属的な地位におちいった。その圧力はしだいに東アジアに及んでその先端が日本にも達した。ロシア・イギリスそしてアメリカの船がしきりに日本の港に来航し、通商を要求するようになった背景にはそのような世界情勢の大きな変動があった。
明治維新と富国強兵
地租改正
地租改正により、政府はひとまず安定した財源を確保した。土地制度の面からみれば、地租改正の結果、旧領主ではなく農民(地主、小作関係のあるところでは地主)の土地所有権が認められ、土地に対する単一の所有権が確定し、近代的土地所有制度が確立された。こうして近代資本主義経済の発展の基礎が築かれたのである。
近代産業の育成
明治政府の近代化政策における最も重要な課題は、欧米先進資本主義列強諸国と国際杜会において、肩をならべる強国をつくるための富国強兵策であった。経済面においては、それは欧米諸国の経済制度・技術・設備・機械などの導入による政府の近代産業の育成=殖産興業として現れた。
貨幣・金融制度
資本主義の発展のためには、金融・貨幣制度の確立がどうしても必要であった。これまで、一般の鋳貨のほか、藩札・外国貨幣などきわめて数多くの種類が流通しており、さらに財政難のため不換紙幣たる太政官札、民部省札などもしきりに発行され、混乱をもたらしていた。これらを整理するため、まず1871(明治4)年、伊藤博文の建議によって新貨条例を公布して、金・銀・銅の新貨幣を造幣寮(のち造幣局)で鋳造し、金本位制を定め、円・銭・厘の十進法を採用した。建前は金本位制であったが、貿易上では主に銀貨が通用していたので、事実上は金銀複本位制であった。そのうえ、1878(明治11)年には銀貨の通用制限が撤廃されたので、実質的には銀本位制となった。また1872(明治5)年には太政官札などの不換紙幣と引き換えるために、新しい政府紙幣を発行したが、これもまた不換紙幣であった。
立憲国家の成立と日清戦争
松方財政
日本の資本主義は、政府の保護・育成のもとで明治初年以来しだいに成長し始めた。しかし、政府は近代化政策を進めるために、ばく大な経費を必要としながら、十分な財源をもたなかったので、盛んに太政官札などの不換紙幣を発行した。とくに1877(明治10)年の西南戦争に際して、その戦費にあてるため多額の不換紙幣を増発し、民間の国立銀行も盛んに不換銀行券を発行したので、インフレーションがおこって物価が騰貴した。その結果、政府の歳入は実質的に低減し、財政は困難になり、また貿易面でも、明治初期以来、おおむね輸入超過が続いたため、正貨保有は大幅に減少してしまった。
このようにして、1880年代の深刻な不況を通じて資本の原始的蓄積(原蓄)が強力に進行し、少数の地主・富農・富商などの手に資金が集中するとともに、資本主義の発達のために不可欠な労働力が農村のなかに生み出される条件ができつつあったのである。
日露戦争と国際関係
列強の中国分割
19世紀末期、日本がようやく近代国家を形成したころ、欧米先進資本主義諸国は早くも帝国主義段階に突入しようとしていた。諸列強は生産物の販路を海外に広げ、また、直接に資本を輸出して利益を収めるためにこぞって積極的な対外進出政策をとり、植民地獲得を競い合ったが、その矛先は、アジア・アフリカなどの発展途上諸地域に向けられた。
北清事変と日英同盟
帝国主義
帝国主義という言葉は非常にさまざまな意味をもっており、最も広義には、「侵略主義」あるいは対外的な勢力拡張政策一般と同じ意味に使われる。しかし狭義には、とくに独占資本主義段階における積極的な対外膨張政策を指す場合が多い。この段階では、生産の独占集中・金融資本の支配・資本の輸出などの経済的特色がみられ、これらを背景に武力による海外植民地設定·領土拡張政策が進められるとされる。世界史的には19世紀末期から帝国主義時代が始まったと考えられている。日本がいつごろから帝国主義段階に入ったかについては諸説あるが、日露戦争以後とする説が有力である。いずれにせよ、日本の場合は国内における独占資本の十分な成熟を待たずに、国内の経済的な条件よりも、むしろ国際政治の条件に刺激されて、対外膨張政策へ突入したという面が強い。
近代産業の発展
産業化の基盤整備
1880年代後半には鉱山や造船所などの官営事業の民間への払下げが本格的に進められ、民間産業の発展に大きな役割を果たした。払下げを受けたのは、多くが政府と特権的に結びついていた三井・三菱などのいわゆる政商であった。彼らは政府が巨額の費用を投じて建設した官営事業を比較的安い値段で払下げを受け、商業資本から産業資本へ転化し、日本資本主義の中心的な担い手に成長して、財閥としての足場を築くにいたったのである。
産業革命の達成
日清戦争後、政府は清国から得た巨額な賠償金をもとに、ぼう大な経費を投入して、軍備の拡張と産業の振興を中心に、いわゆる戦後経営を推進した。その影響で、経済界には空前の好景気が訪れ、企業の勃興が相つぎ、著しい会社設立ブームの様相を呈した。1900(明治33)年から翌年には資本主義恐慌が訪れ、銀行をはじめ産業界に大きな影響を与え、企業の倒産や操業短縮が行われたが、政府の指導によって日本銀行は普通銀行を通じて盛んに産業界に資金を供給し、また、政府は日本勧業銀行·府県の農工銀行・日本興業銀行などの特殊銀行の設立を進め、産業資金の調達と供給にあたらせた。
19世紀末、欧米先進諸国は金本位制を採用していたが、アジアでは、日本·中国など多くの国でなお銀本位体制が主流であった。しかし、金銀相場の変動などから貿易関係は不安定で、欧米諸国との貿易の発展や外資導入をはかるためにも不便であった。そこで政府は金本位制の採用をはかり、清国からの賠償金を金準備にあて、1897(明治30)年には貨幣法を制定して金本位制を実施した。
このようにして、日清戦争前から紡績業や製糸業など繊維産業部門で始まっていた産業革命は、戦後になるとさらに著しい発展をみせ、その結果、繊維産業部門を中心に資本主義が成立するにいたったのである。その模様を部門別に眺めてみることにしよう。
資本主義の発展
日本資本主義の特色
日本の資本主義は欧米先進諸国が200〜300年を要した過程を、せいぜい半世紀というきわめて短期問で達成し、急速に成立・発展をとげた点に大きな特色がある。そして、資本主義の成立と発展の過程におけるめざましい「高度成長」は世界史上の驚異的な現象といえよう。もとより、こうした急速な発展は、政府の主導による近代産業育成政策のもとですでに産業革命を終わっていた欧米先進諸国から、高い水準の経済制度、技術・知識・機械などを日本に導入し、移植することによってもたらされたものである。産業化の推進には巨額の経費を必要としたが、産業革命達成への過程では、若干の例外を除けば、ほとんど外国資金に頼ることなく、日本国内でその資金が調達されたことも注目に値する。こうした歴史的条件のもとで、日本の急速な資本主義の形成が、その「副作用」として工業と農業、あるいは大企業と中小企業の格差(二重構造)、劣悪な労働条件、さまざまな公害や環境破壊など、いろいろな「ひずみ」を生んだことも否定できないし、それらを利用することによって日本は急速な経済発展をとげた、という見方も成り立つかも知れない。しかし、これらの二重構造や「ひずみ」は、後発的に資本主義をめざす多くの国々におおむね共通の現象であり、しかも、日本の「高度成長」はきわめて例外的であった。そのことを考えれば「ひずみ」や二重構造を理由とする見方では、「高度成長」の秘密を解き明かせないであろう。「高度成長」の秘密をどこに求めるかについては、さまざまな考え方があるが、寺子屋教育の伝統を引き継いだ学校教育による国民教育の普及がもたらした国民の読み書き能力の高さ、教育制度を通じて中下層の庶民が国家の指導階層にまで上昇し得るようなタテの社会的流動性の高さ、「日本人の勤勉性」、宗教的束縛の欠如、そして、国民の大部分が同一民族からなり、同一言語を用い、宗教的対立や民族紛争による流血もあまりないという状況のもとでの日本社会の同質性の高さなど、江戸時代以来の日本の歴史的条件の重要性を考慮することが必要であろう。
社会問題の発生
明治の中期以後、資本主義の発達がめざましくなり、工場制工業がつぎつぎに勃興するに伴い、賃金労働者の数も急増した。彼らの多くが農家の次男・三男や子女で貧しい家計を助けるためのいわゆる「出稼型」の労働者であった。しかも、産業革命の中心となった繊維産業部門の労働者は、大部分が女性であり、重工業や鉱山部門では男性労働者が多かったが、全体として女性労働者の比重が大きかったのである。これらの労働者は、同時代の欧米諸国に比べると、はるかに低い賃金で長時間の過酷な労働に従事し、また悪い衛生状態・生活環境におかれるなど、労働条件は劣悪であった。