ヘンリー5世(イングランド王) A.D.1387〜A.D.1422
ランカスター朝第2代イングランド王(在位1413〜1422)。ヘンリー4世と最初の妻メアリー・ド・ブーンの子。クラレンス公・トマス・オブ・ランカスター、ベッドフォード公・ジョン・オブ・ランカスター、グロスター公・ハンフリー・オブ・ランカスターの兄。ヘンリー6世(イングランド王)の父。積極的な大陸経営を目指し、1415年、フランス国内のブルゴーニュ派とアルマニャック派の内紛に乗じて休戦中であった百年戦争を再開し、アジャンクールの戦いで大勝してフランス軍主力を壊滅させた。
1420年、トロワ条約を締結して自らのフランス王位継承権をイングランドに認めさせ、ランカスター朝の絶頂期を築いたが、2年後に急死した。
ヘンリー5世(イングランド王)
年表
即位前
- 1387年、父・ヘンリー・オブ・ボリングブロク(後のヘンリー4世)の従兄、リチャード2世(イングランド王)の統治下で生まれる。
- 1398年、12歳の時に父がリチャード2世(イングランド王)により、フランスに追放される。既に母も他界していたヘンリーを国王リチャード2世は引き取り、優遇した。
- 1399年、再起を図る父の率いるランカスター派がイングランドに戻り、リチャード2世を捕らえ、父自らがイングランド王・ヘンリー4世に即位し、ランカスター朝を興す。
- ヘンリー5世はプリンス・オブ・ウェールズ、ランカスター公、コーンウォール公・チェスター伯・アキテーヌ公に叙された。
- 1403年、オワイン・グリンドゥールの反乱に、自分の軍隊を率いてウェールズに向かい、反乱に加担したヘンリー・パーシー(ホットスパー)に対しても、シュルーズベリーの戦いで指揮を取り、勝利する。(この時、ウェールズ軍の放った矢がヘンリー5世の頬を貫き、重体となるが、この優秀なウェールズの弓兵を戦略に含めていく。)
- 1408年まで、フランスが支援していたオワイン・グリンドゥールによるウェールズの反乱の鎮圧に注力する。
- 1410年、父王・ヘンリー4世(イングランド)の健康状態の悪化に伴い、叔父にあたるヘンリー・ボーフォートとトマス・ボーフォートに助けられながら実質的な政権を支配する。
即位後
1413年3月20日に父が亡くなると、ヘンリー5世よりも弟のクラレンス公・トマス・オブ・ランカスターが支持された。
内政
即位当初から自らをイングランドという連合国 家の長と位置付け、過去の国内対立を水に流す方針を明確にした。
国内対立対処
- 父と対立したリチャード2世を再度丁重に埋葬
- リチャード2世が在位していた間の推定相続人であるマーチ伯エドマンド・モーティマーをお気に入りとして手元に置く
- 爵位・領土を没収されて苦しんでいた貴族たちには爵位・領土を順次回復する
- ホットスパーの遺児ヘンリー・パーシーもノーサンバランド伯を継承
当時異端として迫害されていたロラード派の不満分子に対する対処が、ヘンリー5世(イングランド王)の最大の内政課題だったが、1414年1月にジョン・オールドカースルの反乱を未然に防ぎ、内政基盤を堅固なものとした。
1415年6月にサウザンプトンの陰謀事件を除いてはこれ以降の彼の統治期に大きな内政問題は発生していない。
政府公式文書での英語の使用を促進し、350年前のノルマン・コンクエスト以来初めて、王として個人書簡に英語を使用した。
外交
フランス
百年戦争期の当時のフランスは、国王シャルル6世(フランス王)は精神異常のため事実上政務を執ることが不可能な状態であり、ブルゴーニュ派とアルマニャック派に分かれて内戦状態にあった。
両派ともそれぞれ相手を倒すためイングランドの加勢を必要とし、ヘンリー5世に向けて婚姻関係と領地割譲を提案してきていた。
ヘンリー5世は、反乱を起こしたオワイン・グリンドゥールに、フランス政府が援助していたことへの賠償などにより、領土割譲とフランス王位を要求するが、アルマニャック派はこれを拒否したため、百年戦争を再開し、フランス遠征を行う。
1415年の遠征
1415年
8月11日 ヘンリー5世のイングランド軍はフランスに向けて出航。
8月12日 北フランスに上陸、アルフルール(現セーヌ=マリティーム県)要塞を包囲。
9月22日 アルフルールを陥落(アルフルール包囲戦)。
予想以上に長引いた包囲戦で疾病・負傷者が増えたイングランド軍は、補給可能なカレー港に陸路移動を開始。
10月25日 アジャンクールの戦いで、追撃してきたアルマニャック派を中心とするフランス軍を撃破し、多くのフランス貴族を捕虜とした。
11月 ブルゴーニュ派からの攻撃はなく、イングランド軍は11月に帰国、ロンドンで凱旋する。
アジャンクールの戦いでアルマニャック派の幹部は戦死するか捕虜となり、彼らは過酷に扱われ長期間イングランドに幽閉された。この中にオルレアン公シャルルとアルテュール・ド・リッシュモンなどがおり、ヘンリー5世が死ぬか、長い年月を経た末でなければ釈放されなかった。また、ヘンリー5世は継母(父の後妻)でリッシュモンの実母ジョーン・オブ・ナヴァールに対しても邪険に扱ったとされる。
制海権
イギリス海峡の制海権を確固たるものにするためには、フランスだけでなく、フランスと同盟するヨーロッパ各国を海峡から締め出す必要があった。
神聖ローマ皇帝・ジギスムントとカンタベリー条約
アジャンクールの戦いの後、神聖ローマ皇帝・ジギスムント(神聖ローマ)はイングランドとフランスの和平調停のためヘンリー5世のもとを訪れ、ヘンリー5世のフランスに対する要求を緩和するように説得した。
ヘンリー5世は皇帝を歓待し、ガーター勲章まで授与した。ジギスムント(神聖ローマ)は返礼としてヘンリー5世をドラゴン騎士団に登録した。数ヶ月後の1416年8月15日、イングランドのフランスへの賠償請求権を認めたジギスムントはカンタベリー条約を締結してイングランドを去った。
1417年の遠征
イングランド国王・ヘンリー5世と神聖ローマ皇帝・ジギスムントとの間につながりができたことで、1417年の教会大分裂の収束に道筋がつき、フランスと大陸諸勢力との分離が進んだ。これを好機として、アジャンクールの戦いの疲弊を癒したヘンリー5世は再び、さらに大規模な進攻作戦を開始した。
8月に始まったイングランドの征服活動でカーンなどノルマンディー地方の沿海部はまたたくまに占領され、ルーアンの町も1418年7月からパリから分断された状態で攻め立てられた。
フランス政府はブルゴーニュ派とアルマニャック派の抗争で機能していなかった。ヘンリー5世は巧みに両派を争わせつつ、9月にシェルブールを、1419年1月にルーアンを陥落させた。
抵抗したノルマンディーのフランス人は厳しく罰せられた。城壁からイングランド人捕虜の首をぶら下げたアラン・ブランシャールは瞬く間に処刑され、イングランド国王を破門したルーアンの司祭ロバート・ドゥ・リベットはイングランドに送られて5年間牢獄に入れられた。
8月、イングランド軍はパリ城外まで達した。ここに至って王太子シャルル(後のシャルル7世)とブルゴーニュ公ジャン無怖公はイングランドに対して共闘すべく和解の交渉を開始したが、9月10日の交渉の場で王太子の支持者が無怖公を暗殺した。そこで新ブルゴーニュ公フィリップ3世(善良公)とブルゴーニュ派はヘンリー5世のイングランド軍と協同することにし、フランス王室も交えた6ヶ月の交渉の末1420年5月にトロワ条約が結ばれた。この条約の中で、ヘンリー5世がフランスの王位継承者・摂政となることが認められた。
そして6月2日、ヘンリー5世はシャルル6世の娘カトリーヌ(キャサリン)と結婚した。6月から7月にかけてモントローの城に押し寄せ、陥落させた。さらに11月にはムランを占領し、ルーアンに滞在した後1421年2月にイングランドへ帰国した。
1421年の遠征
イングランド滞在から4ヶ月後の6月10日、ヘンリー5世は自身最後の遠征のためフランスに向けて出航した。これは南フランスに抵抗の拠点を移した王太子とアルマニャック派の勢力があなどれないからで、フランス駐在のイングランド軍の指揮官だった弟のクラレンス公が3月22日のボージェの戦いで討ち取られていたため報復の意味もあった。
7月から8月にかけてヘンリー5世の軍はドルーを制圧し、シャルトルで同盟軍を支援した。その年の10月にはモーを包囲し、7ヶ月もの長期間包囲した末の翌1422年5月2日に攻略した(モー包囲戦)。
急死
ところが同年8月31日、ヘンリー5世はパリ郊外のヴァンセンヌの森で、モー包囲戦の際に感染していた赤痢で死亡した。34歳であった。わずか数か月前に、息子ヘンリー6世の名前で弟のベッドフォード公ジョンをフランスの摂政に任命したばかりであった。ヘンリー5世としてはトロワ条約の締結の時、病弱な義父シャルル6世よりは長生きする自信があったため「次のフランス王」と取り決めたが、結局ほんの2ヶ月ではあるがシャルル6世の方が長生きすることになった。
キャサリンはヘンリー5世の亡骸をロンドンに運び、11月7日にウェストミンスター寺院に埋葬した。ヘンリー5世の死後、キャサリンは1437年に死ぬまでウェールズ人の侍従オウエン・テューダーと密接な生活を送ったが(密かに結婚したかも知れない)、彼らの孫こそが後にテューダー朝を開いたヘンリー7世である。
ヘンリー5世(イングランド王)が登場する作品
ホロウ・クラウン 嘆きの王冠 シーズン1,第9話-第11話
系図
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