ヴァスコ・ダ・ガマ (1469頃〜1524)
ポルトガルの航海者。1498年、インド西海岸のカリカットに到達。初めてインドにいたる航路を開いた。この航路をへて運ばれる香料の価格は、アレクサンドリア・シリアをへて、イタリア諸都市が手に入れるものよりはるかに安く、しかも莫大な利益をえられた。
ヴァスコ・ダ・ガマ
2年以上の厳しい航海でインド航路を開拓
マヌエル1世(ポルトガル王)の命により、ヴァスコ・ダ・ガマ一行は、4隻170人の船団でインド航路発見を目指した。バルトロメウ・ディアスの到達した喜望峰を回り、北上。リスボン港を出て10ヶ月後に、インド西岸カリカットに到着した。
途中、アフリカ東岸のマリンディで雇った、ムスリムの水先案内人イブン・マージドの貢献が大きかったといわれる。
ヴァスコ・ダ・ガマは香辛料を買い付けて帰国。生還できたのは約60人という厳しい航海であったが、この結果インド航路が開かれた。胡椒の売買により、渡航費用の約60倍の利益が、ポルトガルにもたされたという。ヴァスコ・ダ・ガマは、その後もインドへ赴任、現地の総督に任命され、現地で没した。
近代ヨーロッパの成立
ヨーロッパ世界の拡大
ポルトガルの東インド航路の発見
1497年7月、3隻の船、168人の乗組員でリスボン港を出発したヴァスコ・ダ・ガマ(1469頃〜1524)の船隊は、喜望峰をまわり、アフリカ東岸マリンディで水先案内人をやとい入れ、インド洋を横切り、1498年5月ついにインド西海岸のカリカットに到達した。彼はムスリム商人の妨害をうけながらも、若干の香料・宝石の積荷をえて、1499年9月リスボンにもどった。乗組員の3分の2を失い、3隻の船隊のうち1隻を放棄するという航海であったが、インドにいたる航路が初めて開かれたのであった。この航路をへて運ばれる香料の価格は、アレクサンドリア・シリアをへて、イタリア諸都市が手に入れるものよりはるかに安く、しかも莫大な利益をえられることが判明したのである。
前半生についてはほとんどわからない。アフリカ南端を経由して東アフリカから水先案内人を乗せて、1498年5月20日カリカットに到達した。ガマの航路図は1507年まで印刷されることはなかった。
近代ヨーロッパの成立年表
イタリア・ルネサンス(14〜16世紀) | |
1450頃 | ヨハネス・グーテンベルク、活版印刷技術発明 |
1488 | バルトロメウ・ディアス、喜望峰到達 |
1492 | スペイン、グラナダを占領(レコンキスタ完了) |
クリフトファー・コロンブス、アメリカに到達 | |
1494 | トルデシリャス条約(スペイン・ポルトガル) |
1495 | レオナルド・ダ・ヴィンチ「最後の晩餐」制作(〜1498頃) |
1498 | ヴァスコ・ダ・ガマ、カリカットに到達 |
1517 | マルティン・ルター、九十五カ条の論題発表 |
1519 | フェルディナンド・マゼランの部下、世界周航(〜1521) |
1521 | エルナン・コルテス、アステカ帝国征服 |
イタリア戦争(第三次イタリア戦争 〜1526) | |
1524 | ドイツ農民戦争 |
1529 | オスマン軍の第一次ウィーン包囲 |
1533 | フランシスコ・ピサロ、ペルーのインカ帝国征服 |
1534 | 国王至上法発布(イギリス国教会成立) |
イエズス会設立 | |
1541 | ジャン・カルヴァン、ジュネーヴ市政掌握 |
1543 | ニコラウス・コペルニクス『天球回転論(地動説)』刊 |
1545 | トリエント公会議(〜1563) |
16世紀後半、価格革命おこる | |
1555 | アウクスブルクの和議(ルター派の信仰認められる) |
1558 | エリザベス1世の即位(〜1603) |
1559 | カトー・カンブレジ条約(イタリア戦争終結) |