モンゴル帝国の解体 チャガタイ・ハン国 元(王朝) イルハン国 モンゴル帝国 モンゴル帝国の最大版図と各ハン国地図
モンゴル帝国の最大版図と各ハン国地図 ©世界の歴史まっぷ
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元は政治制度や政治運営の特徴においてはモンゴル帝国に受け継がれた遊牧国家特有の性格が強く、一方で行政制度や経済運営の特徴は南宋の仕組みをほぼそのまま継承している。用語上でモンゴル帝国が伝統的な中国王朝の類型に変化したものであるというような誤解を避けるために、遊牧民の国を指すウルスという語を用いて特に大元ウルスと呼ぶべきであるとする意見もある。

概要

ハイドゥの乱
モンゴル宗室の系図

元朝は、1260年、チンギス=ハンの孫でモンゴル帝国の第5代皇帝に即位したフビライ(フビライ)が、1271年にモンゴル帝国の国号を大元と改めたことにより成立した。
元とはフビライ以降のモンゴル帝国の皇帝政権のことである。
国号である「大元」もこれで一続きの政権の名称として完結したものであったと考えられるが、中国王朝史において唐や宋など王朝の正式の号を一字で呼ぶ原則に倣い、慣例としてこのフビライ家の王朝も単に「元」と略称される。

フビライが皇帝の位につく過程において、兄弟のアリクブケと帝位を争って内戦に至り、これを武力によって打倒して単独の帝位を獲得するという、父祖チンギスの興業以来の混乱を招いた上での即位であった。このため、それまで曲がりなりにもクリルタイによる全会一致をもって選出されていたモンゴル皇帝位継承の慣例が破られ、モンゴル帝国内部の不和・対立が、互いに武力に訴える形で顕在化することになった。
特に、大元の国号が採用された前後に中央アジアでオゴタイ=ハン家(オゴタイ家)のハイドゥがフビライの宗主権を認めず、チャガタイ家の一部などのフビライの統治に不満を抱くモンゴル王族たちを味方につけてイリからアムダリヤ川方面までを接収し、『集史』をはじめペルシア語の歴史書などでは当時「ハイドゥの王国」(mamlakat-i Qāīdū’ī)と呼ばれたような自立した勢力を成した。
帝国の地理的中央部に出現したその勢力を鎮圧するために、フビライは武力に訴えるべく大軍を幾度か派遣したが、派遣軍自体が離叛する事件がしばしば起きるという事態が続いた。この混乱は西方のジョチ・ウルスやフレグ家のイルハン朝といった帝国内の諸王家の政権を巻き込み、フビライの死後1301年にハイドゥが戦死するまで続いた。
かくしてモンゴル皇帝のモンゴル帝国全体に対する統率力は減退して従来の帝国全体の直接統治は不可能になり、モンゴル皇帝の権威の形が大きな変容を遂げ、モンゴル帝国は再編に向かった。すなわち、これ以降のモンゴル帝国は、各地に分立した諸王家の政権がモンゴル皇帝の宗主権を仰ぎながら緩やかな連合体を成す形に変質したのである。
こうした経過を経て、大元はモンゴル帝国のうちフビライの子孫である歴代モンゴル皇帝の直接の支配が及ぶ領域に事実上の支配を限定された政権となった。つまり、大元は連合体としてのモンゴル帝国のうち、モンゴル皇帝の軍事的基盤であるモンゴル高原本国と経済的基盤である中国を結びつけた領域を主として支配する、皇帝家たるフビライ家の世襲領(ウルス)となったのである。

中国からの視点

一方中国からの視点で見たとき、北宋以来、数百年振りに中国の南北を統一する巨大政権が成立したため、遼(契丹)や金の統治を受けた北中国と、南宋の統治を受けてきた南中国が統合された。
チンギス=ハン時代に金を征服して華北を領土として以来、各地の農耕地や鉱山などを接収、対金戦で生じた荒廃した広大な荒蕪地では捕獲した奴隷を使って屯田を行った。また大元時代に入る前後に獲得された雲南では、農耕地や鉱山の開発が行われている。
首都への物資の回漕に海運を用い始めた事は、民の重い負担を軽減した良法として評価される。元々モンゴル帝国は傘下に天山ウイグル王国やケレイト王国、オングト王国などのテュルク系やホラーサーンやマー・ワラー・アンナフルなどのイラン系のムスリムたちを吸収しながら形成されていった政権であるため、これらの政権内外で活躍していた人々がモンゴル帝国に組み込まれた中国の諸地域に流入し、西方からウイグル系やチベット系の仏教文化やケレイト部族やオングト部族などが信仰していたネストリウス派などのキリスト教、イラン系のイスラームの文化などもまた、首都の大都 class=”materialize-red-text”や泉州など各地に形成されたそれぞれのコミュニティーを中核に大量に流入した。

モンゴル政権では、モンゴル王侯によって自ら信奉する宗教諸勢力への多大な寄進が行われており、仏教や道教、孔子廟などの儒教など中国各地の宗教施設の建立、また寄進などに関わる碑文の建碑が行われた。
モンゴル王侯や特権に依拠する商売で巨利を得た政商は、各地の宗教施設に多大な寄進を行い、経典の編集や再版刻など文化事業に資金を投入した。大元朝時代も金代や宋代に形成された経典学研究が継続し、それらに基づいた類書などが大量に出版された。南宋末期から大元朝初期の『輟耕録てっこうろく』や大元朝末期『南村輟耕録』などがこれにあたる。朱子学の研究も集成され、当時の「漢人」と呼ばれた漢字文化を母体とする人々は、金代などからの伝統として道教・仏教・儒教の三道に通暁することが必須とされるようになった。鎌倉時代後期に大元朝から国使として日本へ派遣された仏僧一山一寧もこれらの学統に属する。

14世紀末の農民反乱によって中国には明朝が成立し、大元朝のモンゴル勢力はゴビ砂漠以南を放棄して北方へ追われたが(北元)、明朝の始祖洪武帝(朱元璋しゅげんしょう)や紅巾の乱を引き起こした白蓮教びゃくれんきょう団がモンゴル王族などから後援を受けていた仏教教団を母体としていることに象徴されるように、影響を受けていたことが近年指摘されている。

紅巾の乱

経済上では、宮廷での濫費や、歴代の皇帝によるチベット仏教の信仰や寺院の建立などによって、莫大な国費を費やしたため財政は窮乏した。元朝は、財政難を切り抜けるための交鈔こうしょうを濫発し、専売制度を強化したが、かえって物価騰貴を招き、民衆の生活を苦しめた。
こうした政治の腐敗やインフレに天災や飢饉が加わって、社会不安は増大し、各地で農民の暴動が相次いだ。なかでも弥勒みろく信仰により強固に団結した白蓮教徒は、教主韓山童かんざんどうに指導され、1351年、紅巾の乱(白蓮教徒の乱)をおこした。
韓山童が殺害されたのちも、その子の韓林児を擁して紅巾軍が蜂起を続けると、黄河流域から長江流域にかけての各地で元朝打倒を叫ぶ群雄が割拠した。江南デルタの穀倉地帯を奪われ、大都への食料供給も不可能隣、1368年、江南に明を建国した朱元璋が北伐軍を派遣すると、90年にわたって中国を支配した元朝はモンゴル高原に退いていった。

通恵河開削

13世紀末、フビライは、人口の増加した首都大都に江南から食料を運ぶため、隋代以来の大運河を補修するとともに、新たに大都と通州との間に通恵河つうけいが(全長80km)を開削した。
これによって華北と江南を結ぶ大運河のほか、渤海湾に面した直沽ちょくこ(現天津)からの開運物資も大都に運ぶことが可能となり、江南から山東半島を回って大都方面にいたる海運も発達した。
新しい運河は大都の中心の積水潭せきすいたんまでつながり、大都は内陸都市でありながら港をもつようになった。こうして元の首都大都は名実ともに海陸の交通の拠点となり、元末には人口は100万に達した。

タタールの平和

モンゴル帝国の成立により13〜14世紀のユーラシア大陸の大部分には政治的秩序がもたらされ、経済、文化の両面で東西の交流が盛んになった。このようなモンゴル政権による政治的安定と東西交流の発展を「タタールの平和」(パクス・タタリカ)と呼ぶ。
当時、西ヨーロッパでは十字軍の遠征で劣勢に立たされ、イスラーム教徒のホラズム朝を倒したモンゴル帝国に関心を持った。しかし、バトゥのヨーロッパ遠征(1236〜1242)は、キリスト教世界に大きな不安と脅威を与えた。直接侵入をうけなかった西ヨーロッパでも、インノケンティウス4世(ローマ教皇)は、モンゴルの再来を防ぎ、彼らをキリスト教に改宗する目的でフランシスコ修道会のプラノ・カルピニを使節としてモンゴルに派遣した。第3代ハーンのグユクとカルピニが謁見の際に教皇の親書を手渡して和睦交渉を行なった。この時に教皇宛に送られたグユクの勅書が現存(バチカン図書館蔵)しており、グユクは教皇に帰順を求めている。帰国後カルピニは一時、教皇の怒りを買った。
次いでルイ9世(フランス王)も、十字軍への協力要請とキリスト教の布教の目的で、フランシスコ修道会のウィリアム・ルブルックをカラコルムのモンケのもとに派遣した。ルブルックはその時に見聞にもとづき、モンゴル、中央アジア各地の地理、風俗、宗教、言語などを伝える貴重な旅行記『東方諸国旅行記』を書き残した。

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十字軍を契機に目覚ましい経済発展をとげたイタリア商人は、東方の産物を求めてシリア、パレスチナからイランに進み、「タタールの平和」で保証された中央アジアの東西貿易に接触した。イタリア商人としてはじめてこの商業路を開拓したのがヴェネツィアのニッコロー・ポーロとマッフェーオ・ポーロ兄弟で、ニッコローの子のマルコ・ポーロは、父・叔父とともに中央アジアを経由して元の大都を訪れ、フビライに仕えた。帰国後、マルコ・ポーロが口述した『世界の記述(東方見聞録)』は、中央アジア、中国に関する詳細な記録であり、ヨーロッパ人の東洋への関心を高めた。

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また、『三大陸周遊記』を著したモロッコ出身のイスラーム教徒旅行家イブン・バットゥータも、インドから東南アジアを経由して元朝末期の中国を訪れている。

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宗教・文化

元朝は、各民族の宗教に対しては寛容と保護を基本とした。イスラーム、キリスト教、仏教(チベット仏教、禅宗など)、道教(全真教など)の宗教団体には、元朝に反抗しない限りに於いて、免税などの特権が付与された。

元では科挙が一時廃止されたこともあって、士大夫階級のなかには官界への道を断たれ、郷里で私塾や書院を開いて経学を講じるものや、詩社を結成して詩作に興じるものが多かった。なかでも趙孟頫ちょうもうふに始まる元朝の文人画家は、士大夫による新しい画風を生み出し、元末の江南には、元末の四大家といわれた黄公望こうこうぼう倪瓚げいさんごちん王蒙おうもうらのすぐれた文人画家が現れた。それまでの文人画の様式はさまざまであったがこれらの元末の四大家によって山水画の描法が様式化され、南宋画の様式が確立された。

また、士大夫階級の地位低下により、中国固有の学問や思想は振るわなかったが、宋代に引き続いて庶民文化が発達し、口語体で書かれた戯曲や小説に中国文学史上の傑作が登場した。当時の戯曲は元曲(北曲)と呼ばれ、勧善懲悪などを題材とした物語を、口語体の歌詞やせりふで表現する庶民向けの演劇であった。代表的な作品には『西廂記さいそうき』『漢宮秋かんきゅうしゅう』等があるが、やがて北京を中心に発達した原曲が伝わると、江南でも新しい形式の南曲が生まれた。『琵琶記びわき』に代表される南曲は、明代に入って大いに発達し、伝奇とも呼ばれた。小説では『三国志演義』や『水滸伝すいこでん』などの原型が元代にできあがったといわれている。

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歴史

  • 1260年〜1264年 モンゴル帝国帝位継承戦争:モンゴル帝国の第4代大ハーンモンケの死後に、その一つ下の弟・フビライと、一番下の弟・アリクブケの兄弟が共に大ハーン継承を宣言したことから起きた内乱。
  • 1235年〜1279年 モンゴル・南宋戦争:モンゴル帝国と南宋との間で断続的に行われた戦争。モンゴル帝国(元朝)が完勝し、南宋は滅亡する。
  • 1274年 文永の役:フビライはモンゴル(元朝)と元の属国高麗の連合軍を編成して日本(鎌倉幕府)へ送るが、対馬・壱岐島、九州の大宰府周辺を席巻しただけに終わった。
  • 1281年 弘安の役:二度目の日本遠征も失敗に終わる。2つの日本遠征を合わせて元寇と呼ぶ。
  • 1285年と1288年 白藤江の戦い:ベトナムへ侵攻した元軍は陳朝に敗れる。
  • 1284年〜1286年 樺太に侵攻しアイヌを樺太から排除する。
  • 1287年 ビルマに侵攻し首都パガンの占領に成功したが、現地のシャン人の根強い抵抗に遭い恒久的な支配を得ることはできなかった。
  • 1351年〜1366年 紅巾の乱:白蓮教徒の紅巾党が蜂起した宗教的農民の反乱で、紅巾党の中から現れた朱元璋が他の反乱者たちをことごとく倒して華南を統一し、1368年に南京で皇帝に即位して明を建国した。
  • 朱元璋は大規模な北伐を開始して元朝の都、大都に迫る。
  • 1368年 トゴン・テムルは、大都を放棄して北のモンゴル高原へと退去した。
  • 1388年にトグス・テムルが殺害されて、フビライ以来の直系の王統は断絶する。

注: トゴン・テムルの北走によって元朝は終焉したと見なされるが、トゴン・テムルのモンゴル皇帝政権は以後もモンゴル高原で存続した。
したがって、王朝の連続性をみれば元朝は1368年をもって滅亡とは言えないが、これ以降の元朝は北元と呼んでこれまでの元と区別するのが普通である。
トゴン・テムルの2子であるアユルシリダラとトグス・テムルが相次いで皇帝の地位を継ぐ(明は当然、その即位を認めず韃靼という別称を用いた)。

北元

北元では1388年にトゴン・テムルの子孫が絶えてフビライ家の皇帝世襲が終焉し、フビライ家政権としての大元は断絶した。
しかし、その後もチンギスの子孫がモンゴル高原で優勢となった遊牧集団に、大元の皇帝として代わる代わる擁立されつづけた。フビライ家の断絶後はアリクブケ家の皇帝が続き、一時は非チンギス裔のオイラト族長に皇帝位を簒奪された(エセン・ハーン)が、1438年にはフビライ家の末裔とされる王家が復権を果たし(ただし第2代モンゴル皇帝の末裔のオゴタイ=ハン家である可能性も指摘されている)、15世紀末にはそこから出たダヤン・ハーンにより、いったん大元皇帝のもとでのモンゴル高原の遊牧民の再統合が果たされる。大元皇帝位が最終的に終焉を迎えたのは、ダヤン・ハーンの末裔のリンダン・ハーンが死に、モンゴル諸部族がリンダンの代わりに満州人の建てた後金皇帝ホンタイジをモンゴルのハーンに推戴した1636年であった。

参考 Wikipedia

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