紫禁城 (北京故宮)
北京市の中心部、明代・清代の宮殿である紫禁城は、現在故宮博物院となっている。明初の永楽帝時代の1420年に完成し、明末の1644年にほぼ全焼したが、清朝により復旧された。官庁・王府街の中心に位置する柴禁城は、中国で現存する最大の木造建築物群で、その規模は東西760m、南北960mに及び、9000余の建物が存在する。「北京と瀋陽の明・清王朝皇宮群」として世界遺産に登録されている。
紫禁城
明・清王朝の宮殿である北京の故宮
北京の故宮は、明代・清代、皇帝の居城で政治の中枢が置かれていた場所である。清王朝崩壊後の1925年から故宮博物院として一般公開されているが、それ以前は紫禁城と呼ばれ、一般の立ち入りは禁じられていた。
1421年、明の永楽帝の北京遷都の際に居城とした故宮には10満人を超える宦官や女官が住んでいた。1644年明滅亡時に破壊されたが、17〜18世紀にかけてのちに満州族と称する女真族の清王朝によって、明王朝の残した漢民族古来の伝統を残しつつも、女真族の伝統文化を取り入れて再建された。
城壁内部は、中央の乾清門を境に二分され、北の内廷は生活の場、南の外朝は公務の場とされていた。外朝には太和殿・中和殿・保和殿が並ぶ。正殿に当たる太和殿は現存する中国最大の木造建築で、創建自体は1420年だが、数度の火災を経て、1695年に再建されて現在に至る。太和殿の内部には玉座などがあり、皇帝即位の儀式や祭礼などのほか、科挙の最終試験で、皇帝自らが試験官を務める殿試の会場でもあった。
1987年にユネスコ世界遺産に登録され、2004年に遼寧省に残る瀋陽の故宮とともに「北京と瀋陽の明・清王朝皇宮群 (Imperial Palaces of the Ming and Qing Dynasties in Beijing and Shenyang)」として拡張登録された。
征服王朝「清」 女真族による巧みな中国統治
清は中国支配にあたって、科挙や儒学など明代の諸制度・文化を引き継ぎ、漢民族古来の文化を受容した。また、中央官職には女真族・漢族から同数名を登用したが(満漢偶数官制)、その一方で女真族の風習である辮髪の強制や言論統制など(文字の獄)も行った。
紫禁城見取り図
A. 午門, B. 神武門, C. 西華門, D. 東華門, E. 隅櫓, F. 太和門, G. 太和殿, H. 武英殿, J. 文華殿, K. 南三所,
赤点線の南側(外朝)
L. 後三宮(乾清宮), M. 御花園, N. 養心殿, O. 皇極殿
乾清宮
雍正帝の皇位継承法
満州族には、ハンの継承者を生前に決めておく習慣がなく、ホンタイジや順治帝、康熙帝は兄弟から推されて皇位継承者となった。康熙帝は一時、中国風にならって皇太子を指名したが、兄弟争いがおこったため皇太子を決定しないまま世を去った。混乱の中で即位した雍正帝は、皇太子争いを防ぐため新しい方法を考案した。すなわち皇子らを学問所に入れ武道学芸をきそわせ、皇帝にふさわしい皇子を見定め、その名を記した書状を密封した箱に入れ、宮殿の玉座の背後にかけられた「正大光明(公正で堂々と潔白なこと)」という扁額のうしろにおき、皇帝の死後開封され、初めて後継者が指名されるというしくみである。この皇帝継承法を「蜜建の法」といい、以後うけつがれた。この法により最初に選ばれたのが、雍正帝の第4子、のちの乾隆帝である。
参考 Wikipedia