百年戦争
1337~1453年 フランスを戦場に,イングランド,フランスの間で断続的に行われた戦争。
戦争が長期にわたった原因は、イングランド王がフランス国内に領土を有し、フランスの王位継承権を争ったことにある。
百年戦争
ウィリアム1世(イングランド王)によるノルマン・コンクェスト以来、イングランド王が同時にフランス王の封臣として大陸に封土を有したことにより確執を繰返していた。さらに中世最大の毛織物生産地であるフランドルをめぐる両国の対立、またワインの特産地で当時イングランド領であったガスコーニュ地方の領有問題がからんでいた。
カペー家のシャルル4世(フランス王)が嗣子を残さず没すると、エドワード3世(イングランド王)はその母がフランスのカペー家の出身であることを理由に王位を要求、フランスの貴族はエドワードの王位請求を退け、シャルルの従兄バロア伯をフィリップ6世(フランス王)として王位につけ、両者の間に対立が生じた。
戦争は両国の国内問題ともからみ合って、戦争と和平とをたびたび繰返しつつ継続した。
- 第1期 (1337年−1360年) は、エドワード黒太子の活躍により、クレシーの戦い、ポアティエの戦いでイングランド側がフランス騎士軍を破り、1360年カレーで講和が成立した。
- 第2期 (1269年−1380年) は,フランスが一時戦勢を回復、1375年和約が成立した。その後散発的な戦闘が行われたが、1396年にリチャード2世(イングランド王)とシャルル6世(フランス王)との間で 28年間の休戦協定が結ばれた。
- 第3期 (1413年−1428年) は、シャルル7世(フランス王)がオルレアンに包囲されるがジャンヌ・ダルクによって危機を救われ、以後フランスが優勢のうちに戦争は終結に向った。その結果,イングランドの勢力は大陸から一掃され,両国とも封建諸侯、騎士の力が衰え、中産市民層の台頭、王権の拡大を招くにいたった。
両国とも自国で戦費を賄うことができなかった。フランスはジェノヴァ共和国に、イングランドはヴェネツィア共和国に、それぞれ外債を引き受けさせた。
データ
年月日:1337年11月1日 – 1453年10月19日 | |
場所:主にフランス、ネーデルラント | |
結果:フランス王国側の勝利。ヴァロワ朝によるフランスの事実上の統一 | |
交戦勢力 | |
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フランス王国 ヴァロワ家 . |
イングランド王国 プランタジネット家 |
百年戦争エドワード期
(1337年 – 1360年)
キャドザント – スロイス – サン・トメール – オーブロッシェ – カーン – クレシー – カレー – ネヴィルズ・クロス – ポワティエ
ブルターニュ継承戦争
(1341年 – 1364年)
シャントソー – ブレスト – モルレー – サン・ポル・ド・レオン – ラ=ロシュ=デリアン – 30人の戦い – モーロン – オーレ
百年戦争キャロライン・フェーズ
(1369年 – 1389年)
ナヘラ – モンティエル – ポンヴァヤン – ラ・ロシェル
百年戦争ランカスター期
(1415年 – 1453年)
アジャンクール – ルーアン – ラ・ロシェル(第2次) – ボージェ – モー – クラヴァン – ヴェルヌイユ – オルレアン – ジャルジョー – モン=シュル=ロワール – ボージャンシー – パテー – コンピエーニュ – コンピエーニュ – ジュルブヴォワ – フォルミニー – カスティヨン
百年戦争の背景
百年戦争の背景にはさまざまな要因が挙げられるが、イングランド王とフランス王との歴史的な対立を軸に、王権強化による国家の統一を目的とした利害の対立が、最終的にフランス王位継承問題により火がついたものである。
抗争
百年戦争の遠因
- 1066年のノルマン征服によりフランス諸侯であるノルマンディ公がイングランド王を兼ねた。(ウィリアム1世・征服王)
- 1154年にアンジュー伯アンリが母方からノルマンディー公兼イングランド王位を相続してプランタジネット朝を開き(ヘンリー2世(イングランド王))、結婚によってアキテーヌ公国をも手に入れたことで、イングランドとフランスの半分を占めるアンジュー帝国を作り上げたことが直接の原因である。
- これによって、プランタジネット家はフランス王の臣下でありながら、フランス王より遥かに広大な所領を持ち、さらに隣国の王位を兼ねるという事態となり、元々イル・ド・フランスの王領地以外での権力基盤が弱かったフランスのカペー朝は危機に立たされた。
- この強大な勢力に対抗し、倒すことがカペー朝の歴代フランス王にとっての課題となった。
-
1203年にフィリップ2世(フランス王)・尊厳王は、プランタジネット家の内部対立を利用してジョン王(失地王)からアキテーヌを除くフランス領土を接収することに成功した。
- さらにブービーヌの戦いの勝利により、これらの領土を確定した後、1215年に王太子ルイ(後のルイ8世(フランス王)・獅子王)は、イングランド諸侯の支持を受けて一時ロンドンを占領し戴冠を目前とした(第1次バロン戦争)。
- しかし、1216年にジョン王が急死し幼いヘンリー3世が即位すると、イングランド諸侯はヘンリー3世を支持したため失敗に終わった。
- ルイ8世はその後もイングランド征服を狙っていたが1226年に死去し、幼いルイ9世(聖王)が即位した。
- これを好機として、既に成人していたヘンリー3世が二度にわたって、フランス領土奪回のための侵攻を行ったが共に失敗し、却って残っていたアキテーヌも占領された。
- しかし、ヨーロッパの平和を望むルイ9世は、イングランドとの抗争の終結を望み、1243年に平和条約を結び、ヘンリー3世が臣従の礼をとることでボルドーを中心としたアキテーヌの一部であるギエンヌとガスコーニュを返却した。
国家統一への動き
これによりイングランドとフランス間の平和は続き、イングランドはウェールズ、スコットランド、アイルランド等のブリテン諸島の支配に力を注ぎ、フランスは大陸の問題に集中した。
しかし、国家統一への歩みの中でフィリップ4世(フランス王)が中央集権的な支配を確立するには、フランス王国にありながら独立的な地域である南のガスコーニュと北のフランドルを接収する必要があった。
同時に毛織物によりヨーロッパ有数の産業地であり、フィリップ4世妃ジャンヌが、「フランスでは王妃は私一人だが、この地では全ての女が王妃同様の暮らしをしている。」と言うほどだったフランドルとワインで豊かなボルドー地域を含むガスコーニュを有することは経済的にも重要であった。
しかし、フランドルは毛織物産業を通してイングランドとの経済的関係が深く、フランドルをフランス王に直接支配されることはイングランドの経済にとって大きな脅威となった。またイングランド王の威信にかけて、大陸に残った最後の領土ガスコーニュを失うことは許されなかった。
1294年から始まるフランスとイングランドとの戦争はフランスがガスコーニュ、フランドルを接収しようとした事に対するイングランドの抵抗と、イングランドの牽制のためにフランスがスコットランドと同盟を結んだことからなるものであり、この構図はそのまま百年戦争の時まで続いたため、1294年を百年戦争を含む一連の戦争の始まりとする見方もある。
イングランド、フランスは共に小国の同盟者であるフランドル、スコットランドを見捨てて、1299年に休戦協定を結んだため、イングランドはスコットランド、フランスはフランドルの統合に一旦成功したが、それぞれ根強い抵抗(スコットランド独立戦争、金拍車の戦い)のため最終的に失敗した。
王位継承問題
1316年にルイ10世(喧嘩王)が亡くなった時、男子の跡継ぎがなく、唯一の女子(ジャンヌ)が王妃の不倫により王家の血を引いていないのではないかという疑惑が有ったため、女性の当主を認めないサリカ法典を理由にルイ10世の弟のフィリップ5世(長駆王)が王位を継承した。
フィリップ5世にも女子はいたが男子は無く、弟のシャルル4世(フランス王)が跡を継いだが、シャルル4世にも男子が無いことで、再び後継問題が浮上した。フランス貴族の多数は、外国の君主がフランス王になることを好まず、男系の長系であるヴァロワ家のフィリップ6世(幸運王)を選び、ジャンヌの系統やプランタジネット家に王位が渡ることを避けるために、サリカ法典をさらに拡大解釈し、女王のみならず女系の王位継承をも禁止した王位継承法を制定した。
当時のヨーロッパでは、男系優先ではあっても女系の継承権を認める慣習が主流であり、フィリップ4世(端麗王)の娘である母イザベラを通して女系の継承権を有するエドワード3世(イングランド王)は異議を唱えたが、エドワード2世(イングランド王)の廃位により混乱が続くイングランドの状況では、これを認めるしかなかった。
1337年におけるエドワード3世(イングランド王)の王位継承権は決して非現実的なものではなかったが、既にフィリップ6世(フランス王)・幸運王が即位して10年が経って既成事実化していること、女系を含めた継承権でもジャンヌの子であるナバラ王・カルロス2世の方が優先することからも実現性は低かった。また、神聖ローマ皇帝やローマ教皇、その他の周辺諸国も強力なフランスが分割されて弱体化することは支持できても、イングランド、フランスを併せた強大な君主が誕生することは認められなかった。
ガスコーニュ問題
エドワード3世(イングランド王)が再びスコットランドの統合に乗り出すと、1334年にフランスが亡命してきたスコットランド王・デイヴィッド2世を保護し支援する意図を見せたため、両国の関係は再び悪化した。イングランドはこれまでの経験から、スコットランドを併合するにはフランスを叩いて手を引かせる必要があること、ガスコーニュを確保するには、イングランドからの支援なしに防衛できるだけのまとまった領土を宗主権ごと有する必要があることを学んでいた。
エドワード3世(イングランド王)は度重なるスコットランドとの戦闘の勝利によりロングボウを中心とした軍事力に自信を深めており、王位継承権を大義名分としてアキテーヌの失った領土はもとより、ジョン王の時代に失ったアンジュー帝国時代の大陸領土を取り返すことを狙っていた。
一方、フィリップ6世(フランス王)も、優越する国力に自信を持っており、デイヴィッド2世をスコットランドに戻して牽制させながら、ガスコーニュを完全に併合し、フランス王国の支配を完成させることを目指していた。
ギュイエンヌ問題
プランタジネット・イングランド王朝の始祖ヘンリー2世(イングランド王)は、アンジュー伯としてフランス王を凌駕する広大な地域を領地としていたが、ジョン(欠地王)の失策とフィリップ2世(尊厳王)の策略によって、13世紀はじめまでにその大部分を剥奪されていた。大陸に残ったプランタジネット家の封土はギュイエンヌ公領のみであったが、これは1259年にジョンの息子ヘンリー3世がルイ9世(聖王、フィリップ2世の孫)に臣下の礼をとることで安堵されたものである。
このため、フランス王は宗主権を行使してしばしばギュイエンヌ領の内政に干渉し、フィリップ4世(端麗王)とシャルル4世は一時的にこれを占拠することもあった。イングランドは当然、これらの措置に反発し続けた。
フランドル問題
フランドルは11世紀頃からイングランドから輸入した羊毛から生産する毛織物によりヨーロッパの経済の中心として栄え、イングランドとの関係が深かった。フランス王フィリップ4世は、豊かなフランドル地方の支配を狙い、フランドル伯はエドワード1世(イングランド王)と同盟し対抗したが、1300年にフランドルは併合された。しかしフランドルの都市同盟は反乱を起こし、フランスは1302年の金拍車の戦いに敗北し、フランドルの独立を認めざるを得なかった。しかし、1323年に親フランス政策を取ったフランドル伯ルイ1世(ルイ・ド・ヌヴェール)が都市同盟の反乱により追放されると、フィリップ6世(フランス王)は1328年にフランドルの反乱を鎮圧してルイ1世を戻したため、フランドル伯は親フランス、都市市民は親イングランドの状態が続いていた。
スコットランド問題
13世紀末からイングランド王国はスコットランド王国の征服を試みていたが、スコットランドの抵抗は激しく、1314年にはバノックバーンの戦いでスコットランド王ロバート・ブルースに敗北した。しかし、1329年にロバートが死ぬと、エドワード3世(イングランド王)はスコットランドに軍事侵攻を行い、傀儡エドワード・ベイリャルをスコットランド王として即位させることに成功した。このため、1334年にスコットランド王デイヴィッド2世は亡命を余儀なくされ、フィリップ6世(フランス王)の庇護下に入った。エドワード3世(イングランド王)はデイヴィッド2世の引き渡しを求めたが、フランス側はこれを拒否した。エドワード3世(イングランド王)は意趣返しとしてフランスから謀反人として追われていたロベール3世・ダルトワを歓迎し、かねてより険悪であった両者の緊張はこれによって一気に高まった。
ヨーロッパの情勢
当時のローマ教皇は既にアヴィニョンに滞在し(アヴィニョン捕囚)、暗黙にフランス王を支持しており、中立的な調停者として権威を喪失していた。一方、神聖ローマ帝国では大空位時代は終わったものの、ハプスブルク家、ルクセンブルク家、ヴィッテルスバッハ家が交互に帝位についており、当時の皇帝ヴィッテルスバッハ家のルートヴィヒ4世 はローマ教皇と激しく対立し破門されていた。フランスはフランス王太子ジャン(後のジャン2世(フランス王))と婚姻を結んだルクセンブルク家を支持していた。
こうした中で、エドワード3世(イングランド王)はルートヴィヒ4世と同盟し、フィリップ6世(フランス王)はローマ教皇ベネディクトゥス12世の権威を利用しながら共に低地(ネーデルラント)諸侯の支持を得ようとしていた。
系図
宣戦
1337年11月1日 エドワード3世(イングランド王)からフランス・ヴァロワ朝へ挑戦状送付
スコットランド問題によって両家の間には深刻な亀裂が生じた。フィリップ6世(フランス王)は、ローマ教皇ベネディクトゥス12世に仲介を働きかけたようであるが、プランタジネット家が対立の姿勢を崩さなかったため、1337年5月24日、エドワード3世(イングランド王)に対してギュイエンヌ領の没収を宣言した。これに対してエドワード3世(イングランド王)はフィリップ6世のフランス王位を僭称とし、10月7日、ウェストミンスター寺院において臣下の礼の撤回とフランス王位の継承を宣誓した。11月1日にはヴァロワ朝に対して挑戦状を送付した。これが百年戦争の始まりである。
百年戦争 年表
第1期 1337年-1360年
- 1336年
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フランドル
- 百年戦争にいたるまでのヴァロワ朝との関係悪化にともない、イングランドがフランドルへの羊毛の禁輸を決定。
- 材料をイングランドからの輸入に頼るフランドル伯領の毛織物産業は大きな打撃を受け、経済状況が悪化する。
- 1337年
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イングランドーフランドル
- アルテベルデの指導によりヘント(ガン)で反乱が勃発、これにフランドル諸都市が追従し、反乱軍によってフランドル伯は追放。
- 8月 低地諸国(ネーデルラント)の多くはイングランドと同盟を組んだが、エドワード3世(イングランド王)は莫大な支払いが生じる。
イングランドーフランス
- 11月 エドワード3世(イングランド王)、フランスへ挑戦状送付。
- 1338年
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イングランドーフランス
- イングランドの国庫は空に近い状態だったため、同盟諸国に支払う資金調達に手間取りフランスへの侵攻が遅れる。
- フランスはその間に、ジェノヴァのガレー船を雇い、イングランドの海岸地帯を襲撃。プリマスは襲撃を受け、サザンプトンを略奪、ガーンジー島を占領。
- エドワード3世(イングランド王)は神聖ローマ皇帝ルートヴィヒ4世と結び、舅であるエノー伯等の低地(ネーデルラント)諸侯の軍を雇って北フランスに侵入。
- 9月にフランスに侵攻したが同盟軍はあまり当てにならず、カンブレー等、いくつかの地域を焼き払ったが、価値のある地点を占領できなかった。
- イングランド領・ガスコーニュがフランス軍から襲撃されるが、ガスコーニュの代官オリバー・インガムは有能な指揮官であったが、イングランドの援軍を期待できず、専守防衛を強いられる。
イングランドースコットランド
- フランス艦隊の襲撃の対策にかかる費用により、イングランドは他の戦線への資金を欠くようになり、スコットランドにおけるイングランド勢力の状況は非常に悪化する。
- スコットランド軍はフォース湾の北における最後のイングランド側拠点・パースを奪回。
- 1339年
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イングランドーフランス
- 4月 フランスは、イングランド領のガスコーニュの北の重要なアジュネの城ペンやガロンヌのブライ、ブールの2つの市を占領
- 10月23日 エドワード3世(イングランド王)はフィリップ6世(フランス王)に挑戦状を送りラ・シャペルでの決戦を迫ったが、フィリップ6世はこれを回避し、エドワード3世は撤退する。
- フランドルにおける、ヘントを中心とした自治政府の首班・、ヤコブ・ヴァン・アルテベルデの権力が確立し、イングランドとフランドルの関係は一層親密になり、12月には正式に反仏同盟を結ぶ準備ができた。
- 1340年
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イングランドーフランドル
- フランドル都市連合はエドワード3世(イングランド王)への忠誠を宣誓。
- 1月26日 エドワード3世(イングランド王)はヘント市場においてフランス王たることをを宣言。(中世の封建道徳では、神の恩寵を受けた正統な王に対する反抗は重大な罪と考えられたため、エドワード3世(イングランド王)はフランドルとの同盟を確実にし、自らの反乱者と言う汚名を避けるため)
- エドワード3世(イングランド王)は王妃フィリッパをヘントに残して、議会対策のためイングランドに戻る。
イングランド−フランス
- イングランドはジェノヴァに補償金を支払い、フランス海軍に参加しないよう工作し、1月にイングランド艦隊はブローニュを襲撃し、フランス艦隊のガレー船を焼き払い、海上の情勢は変化する。
- 6月24日 イングランド同様に商船の寄せ集めとなったフランス艦隊は、スロイスの海戦で、フランス側の18,000人以上の将兵が戦死し、190隻の船が捕獲されて、フランス海軍はほぼ壊滅する。
- フランスの乗員の大部分を提供していたノルマンディーは大打撃を受け、これ以降、イギリス海峡の制海権はイングランドが握り、フランスのイングランド侵攻は妨げられることになる。
- フランス南西部の3人の有力貴族の内、アルマニャック伯ジャン1世とフォワ伯ガストン3世は長い間の仇敵同士で両者の戦闘が始まった。残るベルトラン・ダルブレは一族、味方を募って公然とイングランドに加担した。彼らの活動は、実際の領土の獲得には至らなかったが、戦闘地域は従来の範囲から拡大することになった。
- フィリップ6世(フランス王)はイングランドの同盟者への攻撃を開始し、5月にエノーを攻撃するが、スロイスの海戦の敗北を聞いて、新たな脅威に対応しなければならなかった。
- エドワード3世(イングランド王)は軍を二手に分け、片方をロベール3世・ダルトワに率いさせアルトワを攻撃させたが、6月26日のサントメールの戦いに敗北し撤退する。
- エドワード3世(イングランド王)は自ら北フランスの大都市トゥルネーを攻撃したが、包囲は長期化した。9月にフィリップ6世(フランス王)の援軍が到着したため味方の戦意は低下し、9月25日に9ヶ月の休戦条約を結んだ。
- 休戦期間中に反フランス同盟軍は解体し、フランドル以外の低地諸侯軍は引き上げた。
- イングランドは勝利したが、大金を費やした割にはさしたる戦果を上げることができず、イングランド内では反対意見が強まった。財政は破綻し、債権の支払いを拒否されたイタリアの銀行家達は破産した。
イングランドースコットランド
- 休戦の最中、スコットランド王デイヴィッド2世が帰国したため、エドワード3世(イングランド王)はスコットランド問題にも手を回さなければならなかった。
- スコットランドのイングランド領の大部分を失う。
- 1341年
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イングランドーフランス ブルターニュ継承戦争
- ブルターニュ継承戦争開始 ブルターニュ公ジャン3世が亡くなるとブルターニュの継承をめぐって、イングランド王、フランス王が介入し争う。
ジャン・ド・モンフォール:ジャン3世の異母弟。妻はジャンヌ・ド・フランドル。エドワード3世(フランス王)に忠誠を誓い、フランス軍に対峙する。
ジャンヌ・ド・パンティエーヴル:ジャン3世の同母弟の娘。夫はシャルル・ド・ブロワ:フィリップ6世(フランス王)の甥。 - イングランドとフランスは停戦協定を結んでいたため、エドワード3世(フランス王)は動けなかったが、フィリップ6世(イングランド王)は国内問題であるとして積極的にシャルル・ド・ブロワを支援して、10月にシャントソー(Champtoceaux)の戦いで勝利し、ナントを陥落させてジャン・ド・モンフォールを捕虜とした。
- ブルターニュ継承戦争開始 ブルターニュ公ジャン3世が亡くなるとブルターニュの継承をめぐって、イングランド王、フランス王が介入し争う。
- 1343年-1345年
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イングランドーフランス マレトルワの休戦
- エドワード3世(イングランド王)は、莫大な借金の返済を少しずつ続ける。
- フィリップ6世(フランス王)も、守りの戦争で戦利品を得られないフィリップ6世の戦法に、破産寸前の多くの貴族たちは不満を抱き、休戦中の税の支払を拒否していたため財政が苦しく疲弊していた。
- 1345年-1351年
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イングランドーフランス クレシーの戦い
- 1346年8月26日 フランス北部、港町カレーの南にあるクレシー=アン=ポンティユー近郊。エドワード3世(イングランド王)率いる少数のイングランド軍(約1万2千人)がフィリップ6世(フランス王)率いるフランス軍(約3万 – 4万人)を打ち破った。戦場は保存されて観光名所となっている。
- 騎馬突撃のフランス軍はロングボウのイングランド軍に大敗する。
イングランドーフランス カレー包囲戦
- 1347年 エドワード3世(イングランド王)は、カレーを陥落する。
イングランドーフランス スコットランド
- イングランドは、スコットランド王・デイヴィッド2世を捕虜とし、スコットランドの脅威を大幅に軽減する。
黒死病の流行
- 1348年 黒死病(ペスト)がヨーロッパ中に流行し、イングランド、フランスも大被害を受けたため、イングランドは更なる攻勢取れず。
フィリップ6世死去
- 1350年 フィリップ6世(フランス王)が亡くなり、息子のジャン2世が跡を継ぐ。
- 1351年-1360年
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イングランドーフランス ブルターニュ
- 30人の戦い イングランド、フランス両方から、それぞれ30人の騎士を出して戦い、フランス側が勝ち多額の身代金を得る。
イングランドーフランス パワティエの戦い
- 1356年 エドワード黒太子は、ガスコーニュから侵攻を行い、ポワティエの戦いで勝利し、フランス王・ジャン2世(フランス王)と多くの貴族を捕獲する。
- フランス王・ジャン2世(フランス王)が捕らえられたことでフランス政府の機能は崩壊する。
ロンドン条約
- 1356年末、フランス王・ジャン2世の身代金400万エキュが決定され、ノルマンディー、ブルターニュ、アンジュー、メーヌとフランドルからスペインまでの全ての海岸部がイングランドに割譲され、アンジュー帝国が復活することになった。
フランス ジャックリーの乱
- 1358年 戦争による度重なる被害と領主による農民を保護する機能の低下、地方貴族に対する憎悪から大規模な農民反乱が、ピカルディ、ノルマンディー、シャンパーニュなどフランス北東部で広範に発生した。
- 王太子・シャルル5世は、ジャックリーの乱を鎮圧する。
ロンドン条約の承認拒否とブレティニー条約
- 1359年 摂政の王太子・シャルル5世(フランス王)が開いた三部会は、ロンドン条約の承認を拒否した。
- エドワード3世(イングランド王)は戴冠を目指し再びフランスに侵攻。
- シャルル5世のフランス軍は野戦での戦闘を避け、イングランド軍は最終的にランスやパリを占領することはできなかった。
- 1360年5月8日 教皇インノケンティウス6世の仲介により、ロンドン条約から大幅に条件を緩め、フランス王位の放棄と交換にアキテーヌとカレーの割譲及び300万エキュの身代金を中心とするブレティニー条約を結ぶ。10月にカレー条約として正式に締結された。
- 1364年1月3日 ジャン2世は身代金全額支払い前に解放されたが、その代わりとなった人質の一人が逃亡したため、自らがその責任をとってロンドンに再渡航した。
4月8日、ジャン2世はそのままロンドンで死去し、5月19日、シャルルはシャルル5世として即位した。
第2期 1269年−1380年
- 1364年
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シャルル5世(フランス王)の税制改革と戦略転換
- シャルル5世は敗戦による慢性的な財政難に対処すべく、国王の主要歳入をそれまでの直轄領からのみ年貢にたよる方式から国王課税収入へと転換した。
- 国王の身代金代替という臨時徴税を1363年には諸国防衛のためという恒久課税として通常税収とした。
- 税の徴収によって、フランス王家の財力は他の諸公に比べて飛躍的に伸び、権力基盤を直轄領から全国的なものにした。シャルル5世は税金の父とも呼ばれる。
シャルル5世(フランス王)のフランドル対策
- ルイ2世によって平定されていたフランドルはイングランド寄りの姿勢を見せ、1363年には娘マルグリット(フランドル女伯)とケンブリッジ伯エドムンド(エドワード黒太子の弟、後のヨーク公)の婚姻を認めると、シャルル5世(フランス王)は、教皇ウルバヌス5世に働きかけ、両者が親戚関係にあることを盾に破談を宣言させた。
- 1369年には末弟フィリップ(後のブルゴーニュ公フィリップ2世)とマルグリットを(両者も親戚関係にあるが教皇の特免状を得て)結婚させて、フランドルの叛旗を封じた。
イングランドーフランス ブルターニュ継承戦争再燃
- オーレの戦い イングランドが支援する、ジャン・ド・モンフォールの息子・ジャン4世率いるモンフォール軍と、フランスが支援する、シャルル・ド・ブロワ率いるブロワ軍の戦い。
シャルル・ド・ブロワが戦死してイングランド軍が勝利を収める。 - シャルル5世(フランス王)はこれを機会に継承戦争から手を引き、第一次ゲランド条約を結んでモンフォール伯の子をブルターニュ公ジャン4世として認める。ジャン4世に臣下の礼をとらせたことで反乱は封じられ、イングランドはブルターニュからの侵攻路を遮断された。
- 1366年
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カスティーリャ王国
- シャルル5世(フランス王)はカスティーリャ王国の残酷王・ペドロ1世の弾圧によって亡命したエンリケ・デ・トラスタマラ(後のエンリケ2世)を国王に推すために、国内で盗賊化している傭兵隊の徴収、国外追放目的を兼ね、ベルトラン・デュ・ゲクランを総大将とするフランス軍を遠征させた。
- 1366年9月23日 フランス王の介入によって王位を追われたペドロ1世は、アキテーヌのエドワード黒太子(イングランド王)の元に亡命、黒太子とペドロ1世の間でリブルヌ条約を交わし、イングランド軍はカスティーリャ王国に侵攻する。
- 1367年
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カスティーリャ王国 ナヘラの戦い
- ナヘラの戦い エドワード黒太子(イングランド王)は勝利し、総大将ゲクランを捕え、ペドロ1世の復権を果たす。
- ペドロ1世は資金不足で戦費を負担できず、エドワード黒太子(イングランド王)はこの継承戦争によって赤痢の流行と多額の戦費の負債を抱えることになる。
- 遠征の負債はアキテーヌ領での課税によって担われたため、アキテーヌ南部のガスコーニュに領地を持つ諸侯の怒りを買い、パリ高等法院において黒太子に対する不服申し立てが行われた。
- 1369年
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アキテーヌの宗主権をめぐり百年戦争再開
- エドワード黒太子(イングランド王)にパリ高等法院への出頭命令が出されたが、イングランド側は宗主権ごとアキテーヌが割譲されたと認識しており、これを無視した。
- シャルル5世(フランス王)は彼を告発。
- エドワード3世(イングランド王)は、アキテーヌの宗主権はイングランドにあるとして異議を唱え、フランス王位を再要求。
- 1369年11月30日 シャルル5世(フランス王)はエドワード黒太子に領地の没収を宣言し、百年戦争が再開。
- 1370年
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イングランドーフランス 再征服戦争
- 3月14日 モンティエルの戦いで、カスティーリャ王国の残酷王・ペドロ1世を討ち取ったゲクランはパリに凱旋し、フランス王軍司令官に抜擢される。
- 12月4日 シャルル5世(フランス王)は会戦を避け、敵の疲労を待って着実に城、都市を奪回して行く戦法を取り、ポンヴァヤンの戦いでブルターニュに撤退中のイングランド王軍に勝利する。
- 1372年
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- シャルル5世(フランス王)は、ポワトゥー、オニス、サントンジュを占拠。
- シャルル5世(フランス王)は、7月7日ポワティエを、7月22日のラ・ロシェルの海戦でイングランド海軍を破る。
- シャルル5世(フランス王)は、9月8日 ラ・ロシェルを陥落させ、イングランド王軍の前線を後退させる。
- イングランドはブルターニュ公ジャン4世と軍事同盟を結ぶ。
- 1373年
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- イングランド王軍がブルターニュに上陸するが、フランス王軍司令官・ゲクランはこれを放逐し、逆にブルターニュのほとんどを勢力下におく。
- 1375年
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- 7月1日 フランス優位の戦況を受けて、エドワード3世(イングランド王)とシャルル5世(フランス王)はブルッヘで2年間の休戦協定が設けられるに至るが、互いに主張を譲らず正式な平和条約を不締結。
- 1376年
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- エドワード黒太子(イングランド王)死去。
- 1377年
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- エドワード3世(イングランド王)死去。
- 1378年
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ブルターニュ
- 12月18日 シャルル5世(フランス王)はすでに征服したブルターニュを王領に併合することを宣言。
- シャルル5世(フランス王)は、独立心の強いブルターニュの諸侯の反感を買い、激しい抵抗にあう。
- フランス国内ではラングドック、モンペリエで重税に対する一揆が勃発し、シャルル5世(フランス王)はやむなく徴税の減額を決定する。
- 1378年
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- 9月16日 シャルル5世(フランス王)死去。
- 1381年
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イングランド ワット・タイラーの乱
- 神父のジョン・ボールとワット・タイラーが主導する、戦費調達のための人頭税課税に端を発する大規模な農民反乱が勃発。
- イングランドでは、年少のリチャード2世即位にあたって叔父のランカスター公ジョン・オブ・ゴーントを筆頭とする評議会が設置されていたが、この乱を鎮めたリチャード2世(イングランド王)は評議会を廃して親政を宣言する。
- リチャード2世(イングランド王)は寵臣政治を行い、かつ親フランス寄りの立場を採ったため、主戦派の諸侯とイングランド議会はリチャード2世(イングランド王)に閣僚の解任を求める。
- 4月4日 第二次ゲランド条約が結ばれ、ブルターニュ公領はジャン4世(フランス王)の主権が確約され、ブルターニュ公領のフランス国庫没収(併合)はさけられた。
- 5月 ルーランジャンでエドワード3世(イングランド王)の孫でエドワード黒太子の息子・リチャード2世(イングランド王)とシャルル5世の長男シャルル6世との和平交渉がはじめられる。
- 1387年
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イングランド
- 12月20日 イングランドの議会派諸侯はラドコット・ブリッジの戦いで国王派を破る。
- 1388年
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イングランド
- 2月3日 無慈悲議会においてリチャード2世(イングランド王)の寵臣8人を反逆罪で告発する。
フランス
- 幼少のシャルル6世の後見人となった3人の叔父アンジュー公ルイ1世、ベリー公ジャン1世、ブルゴーニュ公フィリップ2世(豪胆公)、母方の伯父に当たるブルボン公ルイ1世らは、国王課税を復活させて財政を私物化した。特に反乱を起こしたフランドル諸都市を平定した豪胆公は、フランドル伯を兼任して力を持ち、摂政として国政の濫用を行ったため、シャルル6世(フランス王)は、親政を宣言し、弟のオルレアン公ルイや、マルムゼと呼ばれる父の代からの官僚集団がこれに同調して後見人一派を排斥するようになった。
- 1392年
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- アミアン会議 リチャード2世、シャルル6世の直接会談。
フランス
- シャルル6世に精神錯乱が発生し、国王の意志を失ったフランス王国の事態は混迷する。
- 国王狂乱によって、ブルゴーニュ派とオルレアン派の壮絶な対立をする。
- 1393年
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- ルーランジャン交渉 リチャード2世、シャルル6世の直接会談。
- 1396年
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全面休戦協定
- アルドル会議 リチャード2世、シャルル6世の直接会談。1426年までの全面休戦協定が結ばれる。
- 1397年
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イングランド
- フランス王との交渉に忙殺されていたリチャード2世(イングランド王)は、交渉が一段落した1397年7月10日、対フランス和平案にも反発した議会派の要人で叔父のグロスター公トマス・オブ・ウッドストック、アランデル伯らを処刑、追放する。
- 1398年
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- 政情不安の最中、従兄弟でランカスター公・ジョン・オブ・ゴーントの息子・ヘリフォード公ヘンリー・オブ・ボリングブロク(後のヘンリー4世(イングランド王))が、ノーフォーク公トマス・モウブレーとの諍いをリチャード2世に咎められ、ヘリフォード公を追放刑に処したことにより、王と議会派諸侯はさらに激しく対立する。
- 1399年
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- ランカスター公・ジョン・オブ・ゴーントが死去。リチャード2世(イングランド王)は、財政難のため、ランカスター公の遺領をヘリフォード公へ継がせず没収する。
- ヘリフォード公からランカスター公領を剥奪したことにより、議会派は再び軍事蜂起してリチャード2世(イングランド王)を逮捕する。
- 1399年
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イングランド ランカスター朝成立
- 1407年
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フランス王国の低迷
- シャルル6世(フランス王)の王妃・イザボー・ド・バヴィエールは、シャルル6世の発狂後、王弟のオルレアン公・ルイ・ド・ヴァロワと関係を持ち、ルイ・ド・ヴァロワが財務長官、アキテーヌ総指令となり国政をにぎった。
- ブルゴーニュ派はブルゴーニュ公・フィリップ2世(豪胆公)の後を継いだブルゴーニュ公・ジャン1世(無怖公)によって1405年にパリの軍事制圧を行う。
- 1407年11月23日、オルレアン公を暗殺してブルゴーニュ派は政権を掌握する。
- オルレアン公・シャルル1世の一派は、アルマニャック伯・ベルナール7世を頼ってジアン同盟を結びアルマニャック派を形成、ブルゴーニュ派と対立する。
- 両派の対立はついに内乱に派生し、ともにイングランド王軍に援軍を求めるなど、フランス王国の内政は混乱を極めた。
第3期 1413年-1428年
- 1422年
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イングランド・フランス二重王国
- 1422年8月31日、ヘンリー5世(イングランド王)死去。 イングランド王・ヘンリー6世(イングランド王)は生後9ヶ月でイングランド王位を継ぐ。
- 1422年10月21日、シャルル6世(フランス王)死去。 トロワ条約により、イングランド王・ヘンリー6世(イングランド王)は生後11ヶ月でフランス王位を継ぐ。
参考: Wikipedia