李自成( A.D.1606〜A.D.1645)
李自成は、明を滅ぼすも清に破れる。1628年、陝西地方に大飢饉が起こると反乱に加わってその首領となり、各地を転戦して、1643年には新順王を称し、西安を占領。翌年、北京を攻略して明を滅ぼすが、清の援助をうけた呉三桂の攻撃に敗退、湖北で殺害された。
参考 デジタル大辞泉
李自成
明を滅ぼすも清に破れる
反乱指導者。明を滅ぼし、大順を建国したが、清の援助をうけた呉三桂に敗れて自殺した。
アジア諸地域の繁栄
東アジア・東南アジア世界の動向
東アジアの状況
明の滅亡
東林派・非東林派の政争が激化し混乱を極めていった明朝では、17世紀前半に即位した崇禎帝(毅宗 位1627〜1644)が、東林派・非東林派の政争を抑え、宦官魏忠賢を排除し、徐光啓らを用いて財政の再建に努めた。しかし、中国東北地方の女真族がヌルハチに率いられて強大となり、これを抑えるために明は軍隊を派遣した。軍事費を捻出するために新税を設けねばならず、また相つぐ飢饉で社会は疲弊し、ついには各地で反乱がおこり、明は内部分裂の状態となった。陜西地方の農民反乱のリーダーである李自成(1606〜1645)は、1644年、北京を陥落させ、崇禎帝は自殺し、ここに明は滅亡した。