アケメネス朝 新思想の成立 マガダ国 紀元前500年前後 アケメネス朝ペルシア版図 と周辺諸国の地図 アケメネス朝ペルシア版図と周辺諸国地図
アケメネス朝ペルシア版図と周辺諸国地図 ©世界の歴史まっぷ

メディア王国, エラム, エジプト第26王朝

リュディア, 新バビロニア

アルゲアス朝

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アケメネス朝 Achaemenes(アカイメネス朝) B.C.550〜B.C.330

紀元前550年、アケメネス家のキュロス2世メディア王国を倒して独立王国を樹立。リディア新バビロニアを滅ぼしたあと、その子のカンビュセス2世は紀元前525年にエジプトを征服、第3代のダレイオス1世の時代には、東はインダス川より西はエーゲ海北岸、南はエジプトまでを含む大帝国に発展した。紀元前330年、アレクサンドロス3世の遠征軍に敗れたダレイオス3世の死をもって、アケメネス朝は滅亡。

アケメネス朝

首都:スサ、ペルセポリス、パサルガダエ、エクバタナ

オリエントを統一したペルシア人の帝国。ペルシア語ではハカーマニシュ朝。前550年キュロス2世のときメディアを滅ぼして独立した。次のカンビュセス2世がエジプトを征服し、オリエントを統一した。ダレイオス1世時代にはインダス川からインダス川からエーゲ海にいたる最大領土を実現した。のち、宮廷内の抗争や諸地域の反乱があいつぎ、前4世紀アレクサンドロス大王の東方遠征により滅亡した。

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オリエントと地中海世界

世界史対照略年表(前3000〜前200)
世界史対照略年表(前3000〜前200)©世界の歴史まっぷ

古代オリエント世界

アケメネス朝

いったん崩壊した古代オリエント世界の統一を回復したのは、アケメネス朝(紀元前550年〜紀元前330年)であった。これはイラン高原南西部のファールス地方にいたインド=ヨーロッパ語系のイラン人がたてた国で、ペルシアの名はこの地方名に由来する。

「イラン」がイラン高原の初期の住民の自称「アーリア」に由来しペルシア語であるのに対し、「ペルシア」はヨーロッパ側からの呼称である。

ペルシア人たちは同じくイラン系のメディアの支配下におかれていたが、アケメネス家のキュロス2世(在位紀元前559〜紀元前530)が紀元前550年にメディアを倒して独立王国を樹立した。彼がさらに紀元前546年にリディアを、紀元前538年に新バビロニアを滅ぼしたあと、その子のカンビュセス2世は紀元前525年にエジプトを征服し、第3代のダレイオス1世の時代には、東はインダス川より西はエーゲ海北岸、南はエジプトまでを含む大帝国に発展した。

アケメネス朝 新思想の成立 マガダ国 紀元前500年前後 アケメネス朝ペルシア版図 と周辺諸国の地図 アケメネス朝ペルシア版図と周辺諸国地図
アケメネス朝ペルシア版図と周辺諸国地図 ©世界の歴史まっぷ

ダレイオス1世は全国を20余りの州に分け、各州にサトラップ(知事)をおいて統治するとともに、「王の目」「王の耳」と呼ばれる監察官を配置して情報収集に努めた。また全国の要地を結ぶ「王の道」と呼ばれる軍道を整備し、駅伝制をしいて中央集権の強化をはかった。経済面では、金貨・銀貨を鋳造し、税制を整える一方で、海上ではフェニキア人、陸上ではアラム人による商取引の便をはかっている。

貨幣の鋳造はリディア王国において初めておこなわれた。

服従した異民族に対しては、バビロニアに捕らわれていたユダヤ人の処置にみられるように、それぞれの伝統・文化を尊重し自治を認めるという、寛容な政策をとった。こうしたやり方は、アッシリアの帝国支配方法の多くを継承しながらも、その欠点を改めたもので、広大な多民族国家を統治するにはきわめて有効であった。ダレイオス1世によってひきおこされたギリシア人を相手とするペルシア戦争が、その子クセルクセス1世のとき失敗に終わったにもかかわらず、その後なお1世紀半も帝国が維持されえたのは、この支配体制の巧妙さのためであった。しかし紀元前4世紀に入ると各地にサトラップの反乱がおこり、ついにアレクサンドロス3世の遠征軍に敗れたダレイオス3世の死をもって、アケメネス朝は滅亡した。

ペルセポリス

ダレイオス1世は新年祭を行う場所として、それまでのバビロンのかわりに、ペルセポリスに離宮と祭儀場の建設をはじめた。一年の豊穣を祈願する新年祭は、シュメールアッカド以来の伝統を受け継ぐ最重要行事であった。代々のペルシア王は日常はスサにいて、新年祭のためにだけここに滞在した。のちにアレクサンドロス3世によって焼き払われて廃墟となった。

ペルシア人は、シュメール以来のメソポタミア文明の伝統をうけつぐ一方で、領内の諸民族の文化を統合して、より高い世界文明を築こうとした。ペルシア語を表記するためには、楔形文字を表音化して用いるペルシア文字を工夫した。

楔形文字もエジプトのヒエログリフと同じく、元来は表意文字であった。

公用語としては、ペルシア・エラム・バビロニアの3語のほかに、国際商業語となっていたアラム語が採択された。彼らが信仰したゾロアスター教は、メディア生まれの宗教改革者・ゾロアスター(紀元前7世紀後半?-紀元前6世紀前半?)が、古代イランの二元論的な民族宗教を救済宗教へと高めたものである。

ゾロアスター教は、火や光の崇拝をとくに重視したので拝火教はいかきょうとも呼ばれる。のちに南北朝・隋唐時代の中国に伝わると祆教けんきょうと呼ばれた。

それによれば、この世では善(光明)の神・アフラ・マズダーと悪(暗黒)の神・アーリマンが絶え間なく戦っているが、最期に悪は敗北し、世界は大火災による終末を迎え、人は最後の審判をへて救済されるとした。ユダヤ人はここから二元論的終末論を採用し、のちにそれはキリスト教にも受け継がれた。このほか、光明神のミトラや水神で大地母神のアナーヒターの信仰も行われた。

光明神のミトラへの信仰はのちにローマ世界に入って密教宗教のミトラ教となり、一般民衆の間で流行した。
バクトリアとパルティア

ザグロス山脈の東方、アフガニスタンにいたる広大な地域は、イラン系民族の居住地であった。この地域の大部分は高原性台地であるが、砂漠もあれば、農耕を可能にする降雨や水流がえられる地方もあった。このような自然条件に対応して、住民は地域により農耕遊牧で生計を立ててきた。アケメネス朝(紀元前550〜紀元前330)のもとでは属州に編成されて発展したが、紀元前4世紀後半にアレクサンドロス3世に征服され、その死後はセレウコス朝(紀元前312年〜紀元前63年)の支配下におかれた。

エジプト統一王国の形成と展開
エジプト末期王朝時代

第22〜24王朝はリビア人、第25王朝はヌビア出身のクシュ人のたてた王朝である(エジプト第3中間期)。紀元前7世紀の前半にはアッシリア軍がくりかえし侵入し、エジプトを支配下においた。その後、第26王朝のもとで一時エジプト人の独立が回復されたが、紀元前525年にはアケメネス朝によって征服され、その1州となった。さらに紀元前332年にはアレクサンドロス3世の征服を受け、ここに古代エジプト王国の歴史はその幕を閉じたのである。

アラム人とフェニキア人
アラム人

紀元前8世紀にはアッシリア軍(中アッシリア時代)の侵略に対し、それまで抗争を続けてきたヘブライ人とも手を結んで抵抗したが、破れて独立を失った。しかし王国滅亡後も商業活動はさかんで、その言語は全オリエントの国際共通語となった。そのため、政治的にはアラム人を支配したアッシリアや、のちのアケメネス朝も、公用語としてアラム語を採用したほどである。

フェニキア人

紀元前7世紀にアッシリアの攻撃に屈したあと、新バビロニア・アケメネス朝と次々に異民族の支配を受けたが、海上における活動は引き続き活発で、ペルシア戦争時にはフェニキア海軍が活躍した。

ヘブライ人とユダヤ教

イスラエルは紀元前722年にアッシリアのサルゴン2世に、またユダは紀元前586年に新バビロニアのネブカドネザル2世に征服されて、いずれの場合も住民の多くが強制居住させられた。とくに後者によるバビロニアへの連行は、「バビロン捕囚」として長く後世に記憶されることになる。紀元前538年にアケメネス朝のキュロス2世がバビロニアを占領したとき、ユダヤ人は帰国を許されたが、彼らはその後も長い間、異民族の支配のもとで辛酸をなめねばならなかった。

ササン朝

ササン朝は、アケメネス朝の根拠地であったフォールス地方のペルセポリス付近からおこって、農耕イラン人を勢力基盤としていた。アケメネス朝治下のペルシア帝国の復興をめざし、イラン民族の伝統宗教であるゾロアスター教を国教に定めて、国家の統一と中央集権制の確立をはかった。その目標を実現に移したのがシャープール1世で、「イラン人および非イラン人の諸王の王」と称し、東方ではクシャーナ朝滅ぼしてインダス川西岸まで領土を広げ、西方ではシリアに遠征してローマ軍を破り、260年には軍人皇帝ウァレリアヌスを捕虜とした。

メソポタミアの文化
オリエントと地中海世界
『ギルガメシュ叙事詩』が書かれた粘土板(部分) 前7世紀,ニネヴェ出土
楔形文字は造形文字から発達したものであり、先のとがった筆を使って楔形を印した。これは『ギルガメシュ物語』のうち、神がおこした大洪水の部分が書かれた粘土板。

メソポタミアでは、のちの文明のもとになる各種の技術や文化も生み出された。文字はシュメール人が創始した楔形文字が、言語系統のことなるセム語系やインド=ヨーロッパ語系の民族の間でも使用され、アケメネス朝にいたるまで人々はこの文字を粘土板に記した。
ザグロス山中のベヒストゥーンの磨崖に、アケメネス朝のダレイオス1世が楔形文字で刻んだ、ペルシア・エラム・バビロニアの3語併記の碑文がある。イギリスのローリンソンは、危険を冒して自ら手写したこの碑文の研究をつうじて、ドイツのグローテフェントがペルセポリス碑文をもとに進めていた楔形文字の解読を、さらにいっそう前進させた。

ギリシア世界

ペルシア戦争

ギリシアは東方のオリエント諸国とは密接に交流し、そこから多くの影響を受けていた。しかしアケメネス朝ペルシアはしだいに勢力を西方におよぼし、ギリシアとの関係が深かったリディア王国を滅ぼしてついに小アジアのイオニア都市を支配するにいたった。
アケメネス朝ペルシアはギリシア都市に僭主せんしゅ政をもたせようと圧力をかけ、これに反発したイオニア諸市はミレトスの僭主アリスタゴラスの主導のもとに紀元前499年、反乱に立ち上がったがすぐに鎮圧された。
アケメネス朝ペルシアの専制的支配に対して民主政ポリスを擁護しようとの意識を高めたアテネが反乱都市に援軍を送っていたため、アケメネス朝ペルシア第3代王・ダレイオス1世はギリシア侵入に着手した。これがペルシア戦争である。

ペルシア戦争 ペルシア戦争当時のギリシア地図
ペルシア戦争当時のギリシア地図 ©世界の歴史まっぷ
アケメネス朝には、アテネから亡命した僭主のヒッピアスがうけいれられており、ヒッピアスがアケメネス朝ペルシアを後ろ盾にアテネの支配権の奪回をめざしていることもアテネを危惧させた。

最初の遠征は嵐のため失敗し、紀元前490年に第2回の本格的な遠征がおこなわれた。
トラキア、マケドニアを征服したペルシア軍はアッティカのマラトンに上陸した。ミルティアデスが指揮官としてこれを迎え討ち、アテネは1万の重装歩兵軍でペルシア軍を破り、海へ押し戻した。

このときアテネ方に加わったのはプラタイアのみで、スパルタはちょうど宗教祭典のときにあたっていて、軍隊を出すことができなかった。

アケメネス朝ペルシアはアテネ市を攻撃しようとしたがミルティアデスの作戦で撃退され、帰国せざるをえなかった。以後アテネは艦隊の補強とギリシア=ポリス間の同盟関係の強化に努めた。
紀元前480年、ダレイオス1世の後を継いだアケメネス朝ペルシア第4代王・クセルクセス1世は、史上最大といわれる約20万の歩兵を動員してみずから第3回の遠征をおこなった。
ギリシア方ではアルテミシオンの海戦で破れ、陸ではテルモピレーでレオニダス1世以下のスパルタ兵とテスピアイ兵が全員戦死するなど苦戦が続き、アッティカもペルシアが占領した。
アテネのテミストクレスは市民全員を船で避難させ、巧みな作戦でベルシア艦隊をサラミス湾に誘い込んで全滅させた。

陸ではプラタイアでスパルタとアテネを中心とするポリス軍が勝利し、さらに北方や小アジアでもペルシアを破ってイオニア都市も独立を回復した。こうしてギリシアは専制帝国との戦争に勝利し、ポリス市民が自由と独立を守ったことを誇りとした。

戦争ののちもアケメネス朝ペルシアはギリシアを支配しようとの意図を隠さなかった。スパルタの将軍パウサニアスが横暴で他のポリスの怒りをかい、結局スパルタは指揮権を放棄し、アテネの声望が高まった。またペルシアと接する小アジア・エーゲ海にはアテネと同系のイオニア=ポリスが多いこともあって、アテネのアリスティデスが中心となり、対ペルシア海上同盟が結ばれた(紀元前478年)
これははじめ本部をエーゲ海中心のアポロン神殿のあるデロス島においたのでデロス同盟と呼ばれる。これ以後アテネはこの同盟を足がかりとしてエーゲ海全域に支配権を及ぼしていくことになる。

アジア・アメリカの古代文明

インドの古代文明

マウリヤ朝の成立

インダス川流域は、ダレイオス1世の征服(前520頃)以後アケメネス朝の属州となり、さらに紀元前4世紀後半にはアレクサンドロス3世に征服され(前327〜前325)、一時ギリシア勢力の支配下に入った。

内陸アジア世界の変遷

遊牧民とオアシス民の活動

スキタイと匈奴

西方から内陸アジアに遊牧民が移り住んだのは、新石器時代以後である。その結果、モンゴル高原から南ロシアにかけての草原地帯は、平和な遊牧民の居住地となった。
遊牧という生活様式と騎馬という習慣は、はじめから結びついていたものではなかった。馬に乗るには、手綱、はみ、くつわが少なくとも必要である。そしてこの騎馬の技術を採用し遊牧と結びつけた民族が、世界史上最初の騎馬遊牧民であるスキタイであった。彼らは紀元前7世紀頃、南ロシア草原に現れたイラン系の民族である。紀元前6世紀をすぎると、黒海の周辺、南ロシア、北カフカスの草原を中心に、強大な王国をつくりあげ、アケメネス朝のダレイオス3世やアレクサンドロス3世とも戦い、これを破ったこともあった。

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アケメネス朝ペルシア

アケメネス朝ペルシア
古代ペルシア帝国の支配領域(©古代オリエント博物館)

イラン高原の初期鉄器時代には、各地に小王国が分立していました。やがて、イラン南西部に興ったアケメネス家が有力となり、前550年頃にイラン高原を統一してから、数十年のうちにオリエントのほぼ全域を征服しました。
第3代のダレイオス1世時代に最盛期を迎え、西はエーゲ海から東はインダス川までの広大な領域を支配しました。各地にサトラップ(長官)を派遣し、駅伝制度を整備して、中央集権的支配を確立しました。大王は自分の戦勝を記念する碑文を崖に刻み、また、新年祭を行う壮大な都ペルセポリスを建設しました。
アケメネス朝時代には、これまでの古代オリエント世界やギリシアの諸文化が統合され、洗練された調和のとれた美術様式が確立したのです。

参考 古代オリエント博物館

歴代君主

従来ダレイオス1世はアケメネス朝の傍系とされていたが、近年の研究により、王朝の創始者であるキュロス2世の直系から、アケメネス朝の4代目とされるダレイオス1世が帝位を簒奪し、連綿と続く王朝ではなかったことが研究者間の論争の中でほぼ明らかになっている。また、最後のダレイオス3世も、もともとは従前のアケメネス朝とはつながりのない地方総督に過ぎなかったが、アケメネス朝が断絶したために擁立されたのだという。
そもそものアケメネス朝の系図自体がダレイオスの帝位簒奪を正当化するための捏造だとする説もあり、すると傍系どころではなく王朝間に全く血縁関係はない可能性も出てくる。この説では、キュロス家の名前(チシュピシュ、クルシュ、カンブジヤ)とゾロアスター教の理念で意味づけられた即位名を名乗ったダレイオス家の名前(ダーラヤワウ、クシャヤールシャー、アルタクシャサ)の系統が大きく異なる説明もつくという。

アンシャン王の系統

  • テイスペス
  • キュロス1世
  • カンビュセス1世
  • キュロス2世(紀元前550年 – 紀元前529年)
  • カンビュセス2世(紀元前529年 – 紀元前521年)
  • スメルディス(紀元前521年)

ダレイオスの王朝

  • ダレイオス1世(紀元前521年 – 紀元前486年)
  • クセルクセス1世(紀元前486年 – 紀元前465年)
  • アルタクセルクセス1世(紀元前464年 – 紀元前424年)
  • クセルクセス2世(紀元前424年 – 紀元前423年)
  • ソグディアノス(紀元前423年)
  • ダレイオス2世(紀元前422年 – 紀元前404年)
  • アルタクセルクセス2世(紀元前404年 – 紀元前343年)
  • アルタクセルクセス3世(紀元前343年 – 紀元前338年)
  • アルセス(紀元前338年 – 紀元前336年)
  • ダレイオス3世(紀元前336年 – 紀元前330年)

参考 Wikipedia

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