康熙帝
A.D.1654〜A.D.1722
清の第4代皇帝(在位1661〜1722)。幼少で即位後、60年以上の在位期間に清朝の統治を安定確立させた。三藩の乱や台湾の鄭氏を平定して国内を統一し、外モンゴルのジュンガルを破り、ロシアとはネルチンスク条約を結んで北辺の国境を定めた。内政や文化事業にも力を注いだ。
康熙帝
清の第4代皇帝(在位1661〜1722)。幼少で即位後、60年以上の在位期間に清朝の統治を安定確立させた。三藩の乱や台湾の鄭氏を平定して国内を統一し、外モンゴルのジュンガルを破り、ロシアとはネルチンスク条約を結んで北辺の国境を定めた。内政や文化事業にも力を注いだ。
漢民族を倒し清朝支配を確立
早世した父・順治帝に代わり、8歳で清の第4代皇帝に即位した康熙帝は、15歳で親政を始め、68歳まで帝位に君臨した。即位後まもなく、三藩の乱が起こる。漢民族で藩王となっていた呉三桂らが、清の打倒に立ち上がったのだ。これに台湾から鄭成功も加わる。呉三桂らは、漢民族王朝の再興を旗印に江南を占領。康熙帝は8年を費やして乱を鎮圧。その2年後には台湾の鄭氏を滅ぼし、台湾を中国の領土に組み込んだ。また北方から圧力を加えるロシアのピョートル1世と交戦。ネルチンスク条約を結び、有利な国境を定めた。さらにモンゴルで勢力を得たジュンガル部を制圧し、版図を広げた。
内政では運河の修復、黄河の治水、信西法の制定を行なった。幼少期から勉学に勤しんでいた康熙帝は、全国的に学問を推奨。辞典類の編纂を行い、大規模な地図を作成した。康熙帝の治世から、雍正帝、乾隆帝の3代にわたる治世は、清朝の全盛期となった。
アジア諸地域の繁栄
清代の中国と隣接諸地域
清朝の統治
中国全土がほぼ平定された1661年、順治帝をついで康熙帝(聖祖 位1661〜1722)が即位した。清は中国平定に際して、明から投降した漢人武将をうまく利用した。清は華南の平定が終わると、その功績によって呉三桂を平西王として雲南に、尚可喜を平南王として広東に、耿継茂を靖南王として福建にそれぞれ藩王として封じた。これを三藩といい、彼らは強大な軍事力をもつ半独立政権であった。しかし清にとって中国全土を確実に支配していくためには、これら三藩の勢力は脅威となる存在であった。そこで康熙帝は三藩のとり潰しをはかった。こうした清の政策に対して、1673年、まず呉三桂が反旗をひるがえし、ついで尚可喜の子尚之信、耿継茂のあとをついだ耿精忠もこれに応じた。これを三藩の乱(1673〜1681)という。清はこれら三藩の軍に苦戦したが、呉三桂が病死するとその勢力は急速に衰え、結局三藩は平定された。
康熙帝は、儒教思想に深い関心をもち、学者を動員して『康熙字典』『明史』などを編纂させ、また康熙帝は『古今図書集成』乾隆帝は『四庫全書』など、相ついで大部な叢書を編纂させる国家事業をおこしている。こうしたことは、清が明の正統な後継者であるとともに、中国文化の保護者であることを示そうとするものであった。
しかしながらその反面、清は征服者としての権威を保つため、威圧策として漢人に対し厳しい風俗の統制と思想弾圧をおこたらなかった。清に服従した証として、漢人の男性に辮髪を強制し、思想や言論に対しても厳しく取り締まった。康熙帝・雍正帝・乾隆帝が大規模な図書の編纂事業をおこし、学者や文化人を優遇したが、これは一面では中国内に残る異民族を敵視する書籍を、編纂作業の過程で検閲・没収する意味も含まれていた。またこの時期、文字の獄といわれる多くの筆禍事件がおき、さらに政府は満州人排斥思想(排満思想)を含む図書の刊行を禁止(禁書)し、白蓮教など民間の宗教を邪教として取り締まるなど、厳しい思想統制をおこなった。
文字の獄
文字の獄は、いわゆる筆禍事件のことで、ときの皇帝や朝廷に対して批判的な著述箇所があった場合、厳しい罰がくだされた。明の洪武帝も、厳しい文字の獄をおこしたが、清初の康熙帝・雍正帝・乾隆帝の3代におきた文字の獄はとくに有名である。清は征服王朝であることから、満州族を敵視する漢族の排満思想を抑えるため、少しでも政府や満州族を批判した著述をおこなったものを、徹底的に取り締まった。雍正帝の時代、江西省でおこなわれた科挙の試験官の査嗣庭は、試験に『詩経』のなかの一節の「維れ民の止るところ」と出題したところ、「維・止」の2字は、それぞれ雍正帝の「雍・正」の頭の部分を切り落としたものであり、朝廷に反抗する意思があるとみなされ、ただちに処刑された事件がおきている。
清朝支配の拡大
康熙帝・雍正帝・乾隆帝の約130年間が清の最盛期であり、この時期にその領土は最大限に達していた。領土の拡張を推し進めていった清は、北方地域において、当時東進してきた帝政ロシア(ロシア・ツァーリ国)と衝突した。海外植民地をもつことのできなかったロシアは、16世紀後半から東方のシベリア地域の開発に積極的に取り組み、植民などをおこなっていた。17世紀前半にはオホーツク海に達し、1643年には黒龍江(アムール川)沿いに進出した。清はロシアの前進基地を破壊したが、両者の戦いは断続的に行なわれていた。
三藩の乱を平定した康熙帝は、1689年、ピョートル1世(ロシア皇帝)との間にネルチンスク条約を結び、両国の国境をスタノヴォイ山脈(外興安嶺)とアルグン川の線と定め、国境貿易などを取り決めた。これは清が外国と対等に締結した最初の条約で、中国東北地方全域を確保し、ロシアの南下を阻止した。
一方、中央アジアの天山北路付近には、明代オイラトの後裔であるモンゴル人が住んでいたが、その中のジュンガル部に英主ガルダン・ハーンが現れて急速に強大となり、オイラト部を統一した。彼は、さらに東進して青海地方を併合し、チベット・外モンゴルをも勢力下におくなど、大勢力となった。これに対して康熙帝はみずから大軍を率いてジュンガルの軍を破り、外モンゴルと青海地方を清領とした(1696)。さらにチベットに侵入してきたジュンガル軍を撃退し、チベットを版図におさめた(1720)。外モンゴルが清領となったことから、清はここでもロシアと国境を接することになった。そこで康熙帝のあとをついだ雍正帝は、1727年、ロシアとの間にキャフタ条約を結び、モンゴル方面の国境の画定、交易場の設置などを取り決めた。
清代の社会経済と文化
税制
清朝の税制は、はじめ明朝の一条鞭法をうけついでおこなっていいたが、社会が安定し人口が増加すると、康熙帝は1711年の壮丁(成人)数を基準として、それ以降に増加した人口を盛世慈生人丁として丁税(人頭税)の課税対象から除外することを決めた。このため、それまで税から逃れていた人々が戸籍登録をおこなうようになり、人口が飛躍的に増大した。こうして人頭税にあたる丁銀(丁税)の定数が固定化されると、丁銀を地銀(土地税)のなかにくりこむことが可能となり、次の雍正帝のとき、丁銀を地銀にくりこんで一括徴収する地丁銀制が成立し、さらに乾隆帝の時代に全国へ広がった。地丁銀制は、それまでの人頭税の徴収が廃止され、土地のみを対象とした税制が確立したことを意味する。
清初の編纂事業
清は異民族王朝であるが、積極的に中国文化を重視した。中でも康熙帝・雍正帝・乾隆帝の3皇帝は、豊かな財力を背景に学芸を奨励して漢人学者を優遇し、多くの大規模な編纂事業をおこした。康熙帝時代には明朝の歴史書である『明史』(322巻、完成は乾隆帝時代)や『康熙字典』(42巻)・『佩文韻府』(106巻)などの辞書類、古今の文献から関係事項をとりだして分類した類書の『古今図書集成』(1万巻、雍正帝のとき完成)が編纂され、乾隆帝時代には『四庫全書』(7万9582巻)と、満州・漢・蒙(モンゴル)・蔵(チベット)・回(トルコ)の各語を対比させた辞書の『五体清文鑑』が編纂された。
清が漢人学者を動員してこのような大規模な図書の編纂事業をおこなわせたのは、学者を編纂事業に没頭させて政治的な関心から目をそらせるとともに、中国内に残る異民族を敵視する反清的図書を検閲・没収する意味が含まれていた。ことに『四庫全書』編纂の際には、539種・1万3800巻あまりが禁書として焼却された。
宣教師の来航
康熙帝と宣教師
清初の全盛期時代をつくりだした康熙帝は、在位61年におよび、唐の太宗とならび称される名君である。彼は強健な体をもち、酒もタバコも飲まず、昼夜勉学にいそしみ、在位中変わらない生活を続けたという。彼はキリスト教宣教師がもたらす西洋学術に非常に興味をもち、マテオ・リッチの『幾何原本』を読み、フェルディナント・フェルビーストから天文学・数学・統計学などの講義をうけた。さらにジョアシャン・ブーヴェやレジスらに命じて『皇輿全覧図』をつくらせた。ブーヴェが一時フランスに帰国する際、康熙帝は太陽王ルイ14世に漢籍49冊を贈呈させたという。東西の大国の主が、宣教師をつうじて交流したのは、興味深いことである。
フランス人ジョアシャン・ブーヴェ(白進(白晋)1656〜1730)は、ルイ14世の命によって中国に派遣され、1685年北京に到着した。康熙帝に仕え、幾何学や天文学などを進講し、いったんフランスに帰国して新たな宣教師を連れて再び北京にもどった。その後、レジス(雷孝思 1663〜1738)らとともに清の領域を実地測量して『皇輿全覧図』を作成した。なお、ブーヴェはフランスに帰国した際に康熙帝の伝記である『康熙帝伝』を刊行したため、康熙帝の名がヨーロッパに知られることとなった。
イタリア人ジュゼッペ・カスティリオーネ(郎世寧 1688〜1766)は、1715年北京に入り、康熙帝・雍正帝・乾隆帝の3皇帝に仕えた。彼は油絵や写実的技法、さらに遠近法・明暗法などの技法を伝え、中国絵画に大きな影響を与えた。また、乾隆帝が北京郊外につくらせた離宮である円明園内の西洋風宮殿・庭園の設計にも加わった。
典礼問題
明末から清初に中国に来航したイエズス会宣教師は、積極的に西洋学術などを紹介しながら布教活動をおこない、その結果、明末には15万人もの信者が数えられるようになった。それは彼らが中国内での布教活動促進の一手段として、中国の伝統文化を重んじ、中国語を習得して古典を研究し、自ら儒学者の服装を着用したからである。さらに彼らは、儒教でいう天帝・上帝はキリスト教の神(デウス Deus)と同じであるとして、中国人信者が依然としてやめない孔子の崇拝や祖先の祭祀などの伝統的儀礼(典礼)をも容認したのである。
ところが、イエズス会宣教師により遅れて中国へ来航したドミニコ派やフランチェスコ派の宣教師たちは、こうしたイエズス会の布教活動に対し、キリスト教の教義に違反するものであるとして激しく非難し、ローマ教皇に訴えた。これを「典礼問題」といい、激しい論争の結果、クレメンス11世(ローマ教皇)は1704年、中国の典礼を受け入れたイエズス会の布教活動を禁じた。これを知った康熙帝は大いに怒り、典礼を認めるイエズス会宣教師以外の布教活動を禁じ、他派の宣教師を追放する決定をくだした。さらに雍正帝は、福建省でおきたドミニコ派宣教師に関する事件をきっかけに、1724年キリスト教布教禁止の命をだした。このため、朝廷において学問や芸術などの特殊な仕事に関わっている宣教師以外は中国移住が認められず、マカオに追放となった。
清代歴代皇帝
清朝歴代皇帝
廟号 | 名(愛新覚羅氏) | 在位時期 | 年号 | 備考 | |
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太祖 | ヌルハチ | 努爾哈赤 ヌルハチ | 1616年 - 1626年 | 天命 | 清の前身である後金皇帝 |
太宗 | ホンタイジ | 皇太極 ホンタイジ | 1627年 - 1643年 | 天聡 崇徳 | ヌルハチの第8子。後金を清とする。 |
世祖 | 順治帝 | 福臨 | 1644年 - 1661年 | 順治 | ホンタイジの第9子 |
聖祖 | 康熙帝 | 玄燁 | 1662年 - 1722年 | 康熙 | 順治帝の第3子 |
世宗 | 雍正帝 | 胤禛 | 1723年 - 1735年 | 雍正 | 康熙帝の第4子 |
高宗 | 乾隆帝 | 弘暦 | 1736年 - 1795年 | 乾隆 | 雍正帝の第4子 |
仁宗 | 嘉慶帝 | 永(顒) | 1796年 - 1820年 | 嘉慶 | 乾隆帝の第15子 |
宣宗 | 道光帝 | 旻寧 | 1821年 - 1850年 | 道光 | 嘉慶帝の第2子 |
文宗 | 咸豊帝 | 奕詝 | 1851年 - 1861年 | 咸豊 | 道光帝の第4子 |
穆宗 | 同治帝 | 載淳 | 1862年 - 1874年 | (祺祥) 同治 | 咸豊帝の長子 |
徳宗 | 光緒帝 | 載 | 1875年 - 1908年 | 光緒 | 醇親王奕譞の第2子 |
愛新覚羅溥儀 | 溥儀 | 1908年 - 1912年 | 宣統 | 醇親王載の長子 |