大隈重信 おおくましげのぶ( A.D.1838〜A.D.1922)
佐賀出身。大蔵卿・参議を歴任。1881年、国会開催意見書を左大臣に提出し、国会の早期開設を主張。明治十四年の政変で下野し、立憲改進党の総理となる。黒田内閣の外相として条約改正に尽力。1898年第1次内閣を組織。第2次内閣の時、第一次世界大戦に参戦。在野時代の1882年に東京専門学校を創立。
大隈重信
佐賀出身。大蔵卿・参議を歴任。1881年、国会開催意見書を左大臣に提出し、国会の早期開設を主張。明治十四年の政変で下野し、立憲改進党の総理となる。黒田内閣の外相として条約改正に尽力。1898年第1次内閣を組織。第2次内閣の時、第一次世界大戦に参戦。在野時代の1882年に東京専門学校を創立。
日本初の政党内閣を組織、民衆からも親しまれる
『葉隠』に疑問を呈して新時代を標榜した開明派
薩長が牛耳る明治政府において、佐賀藩出身ながら重きを成したのが大隈重信である。大衆からの人気も圧倒的で、その葬儀には20万とも30万ともいわれる人々が、大隈の死を悼み見送ったという。尊攘過激派として動いた大隈重信は、維新政府成立後には、木戸孝允の保護のもと、開明派官僚として明治初期の金融財政を指導する。明治六年の政変では征韓論に反対して政府内での地歩を固め、大久保利通政権下では地租改正などを推進、国家の土台づくりに貢献した。木戸、大久保という両巨頭が亡くなると、明治政府は薩長閥を中心とした藩閥政治に移行。政府中枢にいた大隈は、自由民権運動に同調、薩長勢力と衝突し、1881年に突如参議を罷免される。下野した翌年、立憲改進党を結成、同年に東京専門学校(のちの早稲田大学)を創立した。1898年には板垣退助の自由党と合同し憲政党を結党、日本初の政党内閣を誕生させて内閣総理大臣に就任した。テロにより右足を失ったとき、「これで頭のほうに血がいくから、血のめぐりがよくなるだろう」と笑い飛ばした豪放さも、もち合わせていた。
近代国家の成立
明治維新と富国強兵
中央集権体制の強化
廃藩置県
版籍奉還によって形式的には中央集権体制は強化されたが、実質的な効果はさほどあがらなかった。そのうえ、藩相互の対立や新政府への反抗的風潮もしだいに現れてきた。また、庶民の間にも新政府への不満の気運がおこり、各地で世直しの農民一揆がおこったりした。そこで新政府は国内の安定化をはかって中央集権の実をあげようと計画し、まず、薩・長・土の3藩から1万の兵力を東京に集め、政府直属の御親兵として中央の軍事力を固めた。ついで、長州の木戸孝允・薩摩の西郷隆盛·土佐の板垣退助(1837〜1919)・肥前の大隈重信(1838〜1922)ら各藩の実力者を参議に据えて、政府の強化をはかった。そして、大久保・西郷・木戸らがひそかに計画を進め、1871(明治4)年7月14日、政府は廃藩置県の詔を発して、いっきょに藩を廃止し県を設置した。同時に、これまでの知藩事を罷免して東京に住まわせることにし、新しく政府の官吏を派遣して県知事(のち、いったん県令と改称)に任命した。初め300以上あった府県は、同1871(明治4)年11月、その区域が大幅に整理·統合され、3府72県となった。ここに幕藩体制はまったく解体され、全国は政府の直接統治のもとにおかれることになったのである。
官制改革
藩閥政府の形成
正院 | 太政大臣 | 三条実美(公家) | 参議 | 木戸孝允(長州) 西郷隆盛(薩摩) 板垣退助(土佐) 大隈重信(備前) |
左院 | 議長 | ー | 副議長 | 江藤新平(肥前) |
右院 | 神祇卿 | ー | 大輔 | 福羽美静(津和野) |
外務卿 | 岩倉具視(公家) | 寺島宗則(薩摩) | ||
大蔵卿 | 大久保利通(薩摩) | 井上馨 (長州) | ||
兵部卿 | ー | 山県有朋(長州) | ||
文部卿 | 大木喬任(肥前) | ー | ||
工部卿 | ー | 後藤象二郎(土佐) | ||
司法卿 | ー | 佐佐木高行(土佐) | ||
宮内卿 | ー | 万里小路博房(公家) | ||
開拓長官 | 東久世通禧(公家) | 次官 | 黒田清隆(薩摩) |
版籍奉還の直後、中央官制に大きな改革が行われ、神祇、太政の2官をおいて祭政一致の形式をとるように改められたが、廃藩置県を迎えて再び大改革が行われた。そのねらいは、中央集権体制を強めることにあり、太政官は正院・左院・右院の三院制となり神祇官は廃止された。正院には政治の最高機関として太政大臣・左右大臣・参議をおき、左院は立法諮問機関とし、右院は各省の長官(卿)、次官(大輔)で構成する連絡機関とされた。このような官制改革の結果、薩長土肥、とくに薩長の下級武士出身の官僚たちが、政府部内で実権を握るようになり、公家出身者は三条実美·岩倉具視を除くとほとんどが勢力を失ってしまった。こうして、しだいに、いわゆる「有司専制」の藩閥政府が形成されていったのである。
近代産業の育成
明治初期の官営事業
その主なものは、つぎのようである。
- 旧幕府、諸藩から引き継いだもの:東京砲兵工廠(幕府の関口製作所)、横須賀海軍工廠(幕府)、長崎造船所(幕府の長崎製鉄所)、鹿児島造船所(薩摩藩)、三池鉱山(柳河藩、三池藩)、高島炭鉱(佐賀藩)、堺紡績所(薩摩藩)
- 新設したもの:板橋火薬製造所、大阪砲兵工廠、赤羽エ作分局、深川工作分局(セメント製造所、不熔白煉瓦製造所)、品川硝子製造所、千住製絨所、富岡製糸場、新町紡績所、愛知紡績所、広島紡績所
このような殖産興業政策を推進したのは、1870(明治3)年に設置された工部省及び1873(明治6)年に設置された内務省で、とくに岩倉使節団一行の帰国後、内務卿大久保利通、工部卿伊藤博文及び国家財政を担当していた大蔵卿大隈重信らがその中心になった。1877(明治10)年、西南戦争のさなか、政府の手で第1回内国勧業博覧会が東京上野で開かれ、各地から機械や美術工芸品が出品・展示され、民間の産業発展に大きな刺激となった。
初期の鉄道
鉄道建設は伊藤博文・大隈重信の熱心な主張で実現したが、建設費にあてるため、政府は100万ポンドの外国債をイギリスで募集した。京浜間の測量が始まったのは1870(明治3)年3月、品川・横浜間が完成して仮営業したのが1872(明治5)年5月、新橋(現在の汐留貨物駅跡)・横浜(現在の桜木町)間の開業式が行われたのは同年10月14日のことであった。当時の時刻表をみると、午前は8時・9時・10時・11時の4回、午後は2時・3時・4時・5時・6時の5回が新橋発となっており、運貨は上等1円12銭5厘、中等75銭、下等37銭5厘であった。当時の米価は1斗(約15kg)40銭足らずであるから、今から思えばずいぶん高い運貨で、上等客車などは初めはガラ空きだったらしい。スピードは時速30キロ以上で新橋・横浜間を53分で走ったから、それまで、東京から横浜へ1日がかりで出かけたことを考えればずいぶん便利になった。1871(明治4)年9月21日試運転中の列車に試乗した大久保利通は、「始て蒸汽車に乗候処、実に百聞一見にしかず。この便を起さずんば、必ず国を起すこと能はざるべし」と日記に記している。鉄道の敷設が国の繁栄のためにば必要不可欠だと、大久保が認識していた様子がよくわかる。
立憲国家の成立と日清戦争
政党の成立
政党の結成
政党 | 代表者 | 主要人物 | 主張内容 | 支持層 | 機関紙 |
---|---|---|---|---|---|
自由党 1881〜84 | 板垣退助 (総理=党首) | 星亨 中島信行 後藤象二郎 | フランス流の急進的自由主義、一院制、主権在民、普通選挙 | 士族・豪農・自作農 | 自由新聞 |
立憲改進党 1882〜96 | 大隈重信 (総理=党首) | 犬養毅 尾崎行雄 矢野龍渓 | イギリス流の漸進的立憲主義、二院制、君臣同治、制限選挙 | 知識層・実業家 | 郵便報知新聞 |
立憲帝政党 1882〜83 | 福地源一郎 | 丸山作楽 | 国粋主義の欽定憲法論、二院制、主権在君、制限選挙 | 官吏・神官・僧侶 | 東京日日新聞 |
国会期成同盟では、かねてから自由主義を標榜する政党の結成を進めていたが、国会開設の勅諭が出されたのを契機に、自由民権派の政党がつぎつぎに生まれた。まず1881(明治14)年10月、国会期成同盟を母体に、板垣退助を総理(党首)とする自由党が結成され、翌1882(明治15)年には、下野した大隈重信を党首として立憲改進党が成立した。これらに対抗して政府を支持する勢力も、同年、福地源一郎(1841〜1906)を党首とする立憲帝政党をつくった。また、地方にもそれぞれの系統を引く民権派などの政党がつぎつぎとつくられていった。
3党の性格
自由党は「自由ヲ拡充シ権利ヲ保全シ幸福ヲ増進シ社会ノ改良ヲ図ル」こと、「善良ナル立憲政体ヲ確立スル」ことなどを綱領とし、自由主義の立場に立って行動は比較的急進的であった。党員も悲憤慷慨の志士型が多く、代言人(弁護士)・新聞記者などの知識層(主に士族)や、豪農・地主・商工業者ら地方有力者層を地盤としていた。幹部には板垣以下、後藤象二郎・片岡健吉・河野広中・大井憲太郎・星亨・植木枝盛らがいた。
立憲改進党は「王室ノ尊栄ヲ保チ、人民ノ幸福ヲ全フスル事」「内治ノ改良ヲ主トシ、国権ノ拡張二及ボス事」などを綱領とし、イギリス流の立憲主義の立場に立って、行動も比較的穏健な漸進主義で、知的・合理的なインテリ臭が強かった。自由党と同じく豪農・地主・商工業者ら地方有力者層が地盤であったが、党の指導者には都市の知識層が大きな比重を占め(いわゆる都市民権派)、とくに大隈とともに下野した旧官吏や慶應義塾出身者が多く加わっていた。幹部には大隈以下、河野敏鎌(1844〜95)·矢野文雄(1850〜1931)·沼間守一(1843〜90)・小野梓(1852〜86)·島田三郎(1852〜1923)·犬養毅(1855〜1932)·尾崎行雄(1858〜1954)らがいた。
立憲帝政党は政府系の政党で、支持者は神官・僧侶・国学者・儒学者などの一部に限られ、その主張は天皇中心主義の保守的なものであり、政府の政党否認の方針によって翌年解散してしまったので、みるべき活動はなかった。
民権運動の激化
板垣外遊問題
板垣と後藤の外遊資金は、政府の井上馨らの斡旋により三井が提供した。政府首脳は自由党の最高指導者を外遊させることによって、党の弱体化をねらうとともに、彼らにヨーロッパ諸国の社会や政治のあり方を実地に見学させて、自由党の政策が現実的になることを期待した。事実、板垣は自由民権の母国と考えられていたフランスの政治社会の「遅れ」と不自由・不安定さに幻滅を感じたらしく、のちには、フランスよりイギリスで学ぶべきだと、しきりに説くようになった。なお、板垣外遊に際して、資金の出所に疑念を抱いた自由党員の一部がこれに強く反対して脱党した。また、立憲改進党は自由党が政府に買収されたとして非難し、ー方、自由党は大隈重信と三菱の関係を激しく攻撃した。こうして両党の対立は一種の泥試合的様相を呈した。
こうしたなかで、1882(明治15)年の福島事件をはじめ、1883(明治16)年には高田事件、ついで1884(明治17)年には、群馬事件·加波山事件など東日本各地で騒擾事件がつぎつにおこった。そして同年10〜11月には埼玉県秩父地方で自由党急進派の影響のもとに、生活に困窮した農民たち(困民党·借金党)がいっせいに蜂起するという大規模な暴動事件がおこり、政府は軍隊を出動させて鎖圧にあたったほどであった(秩父事件)。このような混乱のなかで自由党は統制力を失い、正常な政党活動が困難になったため、1884(明治17)年10月自由党は解党し、同年12月には、立憲改進党も大隈重信·河野敏鎌ら幹部が脱党して活動を停止し、ここに自由民権運動はいったん衰退したのである。
国会開設運動
政府部内でも、1879(明治12)〜81(明治14)年にかけて、政府首脳が相ついで立憲政治の実現について意見書を提出したが、その多くは準備のため十分に時間をかけて国会を開設する(漸進的国会開設)というものであった。ところが、参議大隈重信が1881(明治14)年3月、2年後には国会を開設してイギリス流の政党政治(議院内閣制)を取り入れるべきであるという内容の意見書を上奏して、漸進的国会開設を主張する伊藤博文らとの対立を深めた。しかも同年夏、開拓使官有物払下げ事件がおこったことは、民権派の政府攻攻撃をいっそう高めることになった。そこで政府は、漸進的な国会開設と君主の権限が強大なドイツ(プロイセン)流の憲法をつくる方針を固め、1881(明治14)年10月、民権派の機先を制して大隈重信を辞職させるとともに、1890(明治23)年に国会を開設することを約束する勅諭(国会開設の勅諭)を発した。これが、いわゆる明治十四年の政変である。こうして政府は、岩倉具視・伊藤博文らが中心となり、民権派の攻撃の矛先をかわすとともに、自らの主導権のもとに立憲政治の実現をはかることになったのである。
条約改正
ついで外相となった大隈重信は、列国間の対立を利用して国別に交渉を進める方式を取り、税率に関しては井上案同様、法権に関しては外国人判事任用を大審院に限ることとして、まず1888(明冶21)年にはメキシコとの間の条約締結に成功した。ところが翌年、改正案の内容がロンドンのタイムス紙上に暴露されると、日本国内には外国人判事任用は憲法違反だと攻撃する声が高まり、民権派と国権派は共同して反対運動を展開し、1889(明治22)年10月、大隈は九州の国権主義の結社である玄洋社の活動家に爆弾を投じられて重傷を負い、ときの黒田内閣は総辞職して条約改正交渉は失敗に終わった。あとを受けた外相青木周蔵(1844〜1914)は関税協定制・法権回復の案をもってイギリスと交渉にあたった。多少の難色を示しながらイギリスが同意に傾いていったとき、突然、大津事件がおこり、青木は引責辞職して交渉はまたもや中断された。
初期議会
明治時代の内閣総理大臣
総理大臣 | 成立年月 | 年齢 | 出身・政党 |
---|---|---|---|
伊藤博文(第1次) | 1885.12 | 45 | 長州 |
黒田清隆 | 1888.4 | 49 | 薩摩 |
山県有朋(第1次) | 1889.12 | 52 | 長州 |
松方正義(第1次) | 1891.5 | 57 | 薩摩 |
伊藤博文(第2次) | 1892.8 | 52 | 長州 |
松方正義(第2次) | 1896.9 | 62 | 薩摩 |
伊藤博文(第3次) | 1898.1 | 58 | 長州 |
大隈重信(第1次) | 1898.6 | 61 | 肥前・憲政党 |
山県有朋(第2次) | 1898.11 | 61 | 長州 |
伊藤博文(第4次) | 1900.10 | 60 | 長州・政友会 |
桂太郎(第1次) | 1901.6 | 55 | 長州 |
西園寺公望(第1次) | 1906.1 | 58 | 公家・政友会 |
桂太郎(第2次) | 1900.7 | 62 | 長州 |
西園寺公望(第2次) | 1911.8 | 63 | 公家・政友会 |