東ローマ帝国 ビザンツ史の概観
東ローマ帝国 版図の変遷 ©Varana

ローマ帝国

ヴァンダル王国 (アフリカ), 東ゴート王国

オスマン帝国

モスクワ大公国, セルビア王国, 第2次ブルガリア帝国, キプロス王国, ヴェネツィア共和国, テオドロ公国

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ローマ帝国 (ビザンツ帝国) A.D.395〜A.D.1453

テオドシウス帝の長子アルカディウスから始まる、コンスタンティノープルを首都とする帝国。首都の旧名からビザンツ帝国とも呼ばれる。西ローマ帝国の滅亡後も繁栄は継続し、6世紀のユスティニアヌス大帝の時代には、ローマ帝国の旧領の一部を一時的に回復した。1453年オスマン帝国によって滅ぼされた。

東ローマ帝国

世界史対照略年表(1300〜1800)
/>世界史対照略年表(1300〜1800) ©世界の歴史まっぷ

テオドシウス帝の長子アルカディウスから始まる、コンスタンティノープルを首都とする帝国。首都の旧名からビザンツ帝国とも呼ばれる。西ローマ帝国の滅亡後も繁栄は継続し、6世紀のユスティニアヌス大帝の時代には、ローマ帝国の旧領の一部を一時的に回復した。1453年オスマン帝国によって滅ぼされた。

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  • 395年: 成立(東西分割)
  • 7世紀: イスラム帝国によって領土の大半を失陥
  • 1204年: 亡命政権ニカイア帝国によって再興
  • 1453年: オスマン帝国によって滅亡

ヨーロッパ世界の形成と発展

ヨーロッパ世界の形成と発展 ©世界の歴史まっぷ
ヨーロッパ世界の形成と発展 ©世界の歴史まっぷ

東ヨーロッパ世界の成立

ビザンツ史の概観

ビザンツ(東ローマ帝国)の始まりについては、330年のコンスタンティヌス1世によるビザンティウム遷都(コンスタンティノープルと改称)をとる説と、395年のテオドシウス1世の死による帝国の2分をとる説とがある。いずれにせよ、ゲルマン人の大移動の影響は少なく、曲折を経ながらもその後1000年余りにわたって存在した。
その間、西方カトリック世界と政治的・宗教的に対抗し、またイスラーム勢力を中心とする東方世界とは軍事的・経済的に対抗しつつ、ギリシア・ヘレニズムの伝統にスラヴ的要素を加えた独自のビザンツ・東ヨーロッパ世界を形成することになった。その歴史は、おおむね初期(4〜8世紀初め)、中期(8世紀初め〜11世紀)、後期(11世紀末〜15世紀)の3期に分けられる。

初期ビザンツ帝国

初期ビザンツ帝国ではローマ的専制君主制が維持され、アドリアノープルの戦い(378)で西ゴート人に大敗を喫したものの、すぐに体勢を立て直し、その後のゲルマン諸部族やフン人ササン朝などの攻勢をしのいで発展することになった。その初期の絶頂期を現出したのが、ユスティニアヌス1世(ユスティニアヌス朝)である。ユスティニアヌス1世は、即位5年目におこった首都市民の反乱(ニカの乱)をテオドラ(ユスティニアヌスの皇后)とともに鎮圧すると、将軍ベリサリウス、ナルセスらにゲルマン傭兵を主力とする部隊を率いて西地中海に遠征させ、ゲルマン人により奪われた旧ローマ帝国西半部の再征服を敢行した。

6世紀後半のヨーロッパ地図
6世紀後半のヨーロッパ地図 ©世界の歴史まっぷ
まず、北アフリカのヴァンダル王国を滅ぼし(534 ヴァンダル戦争)、続いて20年に及ぶゴート戦争の末にイタリアの東ゴート王国を征服(555)、さらに西ゴート王国からはイベリア半島の南端部をかすめ取った。また、東方では540年以降ササン朝のホスロー1世と戦って地中海の制海権を確保するなど、一時地中海帝国の再現に成功した。
東ローマ帝国 初期ビザンツ帝国
550年頃のビザンツ帝国 ユスティニアヌス朝 @Wikipedia

内政面でも、往時のローマの勢威を回復すべく、首都のハギア・ソフィア聖堂の再建をはじめ多くの教会堂を建立、また法医学者トリボニアヌスらに命じて共和政以来のローマ法を集大成させた(『ローマ法大全』)。

ローマ法大全:法概論・法学説・勅法集の3部よりなり、中世以降ヨーロッパ諸国の法体系に大きな影響を与えた。

また、経済的には国家統制による農業・商工業の振興に勤め、開墾や植民を奨励し、養蚕業を導入した。
首都コンスタンティノープルは東西の物産の集散地として栄え、人口100万を数えた。

しかし、広大な西方領土の経営は帝国財政に重い負担となり、過重な課税は現地住民の反発を招いた。
ユスティニアヌス1世の死後まもなく北イタリアはランゴバルド人に奪われ、東方では再びササン朝の侵攻が激しさを増し、さらにスラヴ人を従えたアヴァール人のバルカン南下にも苦しむようになった。
また、宗教的に単性論派の多い東方諸族州民の反抗が強まり、6世紀末から7世紀初め、帝国は危機的状態に陥った。

単性論派:キリストには人性と神性とが備わっているとする両性論派に対し、キリストを神として人間的属性を認めない立場を単性論派と称し、異端とされた。

ここに登場したヘラクレイオス1世(ヘラクレイオス朝)はササン朝に対して攻勢に転じ、占領された東方所属州を回復するとともに、アヴァール人をも撃破して帝国の危機を救った。

だが、その頃アラビア半島でイスラーム勢力が急速に台頭し、シリア・メソポタミア・エジプト・アルメニアを相次いで奪われた。こうした中で、防衛力の強化を目指して確立されたのが軍管区制屯田兵制である。
東ローマ帝国 東ヨーロッパ世界の成立
717年ビザンツ帝国 イサウリア朝 @Wikipedia

まず、小アジア地方を手始めに、帝国の行政制度を地域的に広大な幾つかの軍管区(テマ)に再編成し、それぞれに軍事・行政の両権を持つ司令官(ストラテゴス)を配置した。同時に、コロヌスを解放したりスラヴ人を移植したりして土地を与え、その代償に兵役義務を課す屯田兵を多数創出し、各軍管区の司令官に所属させた。この両制度により、大土地所有は抑制され、徴兵と徴税の制度が整い、国家体制が安定することになった。
そのあともアラブ人の侵入はやむことなく(ウマイヤ朝)、764年から数年間はコンスタンティノープルも攻囲されたが、「ギリシアの火」と呼ばれる新兵器の出現も手伝って撃退した(678)。

ギリシアの火

イスラーム軍を苦しめた一種の火炎放射器で、一説によるとシリアからやってきたギリシア人技術家カリニコスが発案したものだという。
硫黄・硝石・松ヤニなどを混ぜた油状の液体に火をつけ、サイフォンで吸い上げ、敵船に向けて発射された。これを受けると油が粘りついて炎上し、水では容易に消すことができなかった。火薬の発明(14世紀初頭)以前の時代にあっては恐るべき火器であった。

ユスティニアヌス1世の時代を最後に、帝国の領土は縮小を重ね、7世紀になるころには、宮廷及び行政の公用語もラテン語からギリシア語へと変わり、しだいにギリシア的・東方的性格を強めた。ここに、ローマを自称しながら、実質的にはコンスタンティノープル(旧ビザンティウム)を中心とする新しいビザンツ社会が形成されていくのである。

中期ビザンツ帝国

この時代に、ビザンツ帝国はイスラーム勢力を中心とする異民族の攻勢からよく自己を保ち、9世紀後半から10世紀のマケドニア朝において最大の繁栄をみるにいたった。

まず、イサウリア朝(シリア朝)(717〜802)の開祖レオン3世とその子コンスタンティノス5世は、小アジア地方に侵入するアラブ・イスラーム勢力を一掃し、以後の戦いを国境での局地戦に限定することに成功した。また両帝は、聖像崇拝を厳禁する宗教政策(イコノクラスム)をとって聖像崇拝派の修道院を弾圧した。
東ローマ帝国 東ヨーロッパ世界の成立
717年ビザンツ帝国 イサウリア朝 @Wikipedia

それは修道院の所領を中心に進展しつつあった大土地所有を抑えるための戦いでもあったが、結果的には国内の混乱をひきおこし、ローマ教皇との関係も悪化させた。
8世紀の末、エイレーネー(東ローマ女帝)は聖像崇拝を復活し、その後一時論争が再燃したものの、843年には聖像崇拝が正当と認められ論争は終わった。これにより、教義面でのローマ教会との関係は修復されたが、1世紀におよぶ対立の間にローマ教会は次第にフランク王国に接近するようになり、カールの西ローマ皇帝戴冠(カール大帝)によってビザンツ皇帝から事実上自立していった。
国内の混乱を収拾したビザンツ帝国では、スラブ人への布教活動が本格化し、ブルガリアとセルビアの改宗が達成されたが、ブルガリアはやがてビザンツの北辺を脅かす強大な勢力となった。

バシレイオス1世に始まるマケドニア朝(867〜886)において、ビザンツ帝国の軍事力は大いに伸長し、イスラームの支配下にあった南イタリアおよびクレタ島を奪回するとともに、バシレイオス2世によりブルガリア(第一次ブルガリア帝国)も滅ぼされ、その領土はビザンツに編入された。
東ローマ帝国 東ヨーロッパ世界の成立
867年ビザンツ帝国マケドニア朝 Source: Wikipedia

帝国の版図は、東方はティグリス・ユーフラテス両河上流、北方はドナウ川に達し、新しい征服地には軍管区制が導入された。こうして、帝国に平和がもたらされ、宮廷を中心に古典文化の復興がみられたが、繁栄の陰で社会の変質が始まっていた。すなわち、小アジア一帯で大土地所有が進展し、帝国を支えてきた自由農民が没落していったのである。

そして、バシレイオス2世が亡くなると(1025)、大所領を擁する貴族勢力を中心に宮廷の内紛が起こり、ブルガリアやセルビアの反乱も加わって帝国は再び混乱した。
そのころ、東方ではセルジューク朝が小アジアに進出、西方でもノルマン人が南イタリアに進出するなど外敵の攻勢が激化し、ビザンツは後退を余儀なくされた。
東ローマ帝国 東ヨーロッパ世界の成立
1205年ビザンツ帝国マケドニア朝 Source: Wikipedia

特に、1054年コンスタンティノープル総主教がローマ教皇庁と断絶したことは、南イタリア支配の維持を困難なものにし、まもなくノルマン人に奪われた。

この結果、キリスト教世界はローマ・カトリック教会ギリシア正教会とに分裂した。
後期ビザンツ帝国

この時期は、コムネノス朝(1081〜1185)のもとで帝国の再建がはかられ、一時繁栄を取り戻すが、13世紀以降次第に衰退に向かい、15世紀半ばには滅亡する。

11世紀の末、宮廷の内紛を鎮めて帝位についたコムネノス朝のアレクシオス1世コムネノスは、貴族勢力に対し軍事奉仕を条件に公有地の管理を任せるプロイノア制を導入、これにより帝国の封建化は進んだが、貴族連合体制のもとで国内は安定することになった。
対外的には、ヴェネツィアと提携してアドリア海からノルマンを撃退、さらにセルジューク朝の圧力に対抗するためローマ教皇に十字軍(第1回十字軍 1096年〜1099年)を要請し、トルコ人に奪われた土地の回復を目指した。
この相対的安定も、12世紀末から再び崩れた。貴族層は帝国からの自立を強め、セルビア・ブルガリアも独立、1204年にはヴェネツィアと第4回十字軍によりコンスタンティノープルが占領され、ラテン帝国の出現をみた。

東ローマ帝国 東ヨーロッパ世界の成立
1095年ビザンツ帝国コムネノス朝 Source: Wikipedia
東ローマ帝国 東ヨーロッパ世界の成立
1180年ビザンツ帝国コムネノス朝 Source: Wikipedia

ビザンツの残存勢力はトレビゾンド・ニケーア・エピロスに独立政権を立てて抵抗、そのひとつニカイア帝国のミカエル8世パレオロゴスは、1261年ジェノヴァの協力を得てコンスタンティノープルを奪回し、ビザンツ帝国を再興した。これが、帝国最後のパレオロゴス朝(1261~1453)の成立である。

東ローマ帝国 東ヨーロッパ世界の成立
1270年ビザンツ帝国パレオロゴス朝 Source: Wikipedia
東ローマ帝国 東ヨーロッパ世界の成立
1400年ビザンツ帝国パレオロゴス朝 Source: Wikipedia

しかし、この再建ビザンツ帝国に昔日の面影はなく、新たにバルカン半島で強大化したセルビア王国の圧力に加え、モンゴル人に追われたトルコ系諸族の小アジア西進、とりわけオスマン帝国の出現は、相次ぐ宮廷の内乱とともに帝国の衰退・領土縮小を加速させた。
オスマン帝国は、14世紀半ばにバルカン半島に進出、都をアドリアノープルにおいて、セルビアなど周辺スラヴ諸族を征服していった。これに対し、キリスト教諸国もハンガリー王ジギスムントを中心に十字軍を結成したが、ニコポリスの戦い(1396)で敗れ、そのあとも敗退を続けた。
そして、1453年メフメト2世率いるオスマン軍によりコンスタンティノープルが陥落、ビザンツ帝国はその1000年におよぶ歴史を閉じることになった。

コンスタンティノープルの陥落

15世紀になると、ビザンツ帝国の領土はほぼコンスタンティノープルに限られていた。この「永遠の都」を征服するべく、1453年4月メフメト2世は陸と海の両方から攻撃を開始した。しかし、テオドシウス2世の二重城壁は堅固(テオドシウスの城壁)で、オスマン軍の新鋭の大砲をもってしても突破できなかった。
また金角湾口には鉄鎖がはられ、オスマン艦隊の侵入もはばまれた。メフメトは局面打開のため、奇抜な作戦を思いついた。それは、鉄鎖で守られている金角湾内部に、山越えで艦隊を移動させ、敵の背後を築こうというものであった。深夜、秘密のうちに兵士を動員すると、丸太や木の板を並べた道をつくらせ、それにオリーブ油や獣脂を塗りつけた。そして、人畜や風力を利用して船を滑らせ、一夜のうちに70隻ものガレー船を移動させることに成功した。この作戦にビザンツ側は動揺し、なお激しい抵抗を繰り広げたが5月29日皇帝コンスタンティヌス11世は戦死し、コンスタンティノープルは陥落した。

ビザンツ文化

ビザンツ文化の特色は、ヘレニズム文化を基調にギリシア・ローマの古典文化とオリエント(西アジア)の文化を融合した独自の文化を形成したことである。

学問

学問の分野では、古代ギリシア・ローマの遺産の上に、実証的・客観的な歴史叙述を重視したプロコピオス(500〜562)や、プラトン哲学から神学・法学・自然科学まで広く古典文化の復興をはかったミカエル・プセルロス(1018〜1078)を生んだ。

美術

しかし、ビザンツ文化としては特に名高いのは美術の分野である。ビザンツ美術はキリスト教美術のひとつとして、教会建築と聖堂内壁のモザイク画(材料には七宝や色ガラスを使用)、イコン(聖画像)などに独自の発達をみた。
初期のビザンツ美術は、東方の影響で神秘性がこく、6世紀のユスティニアヌス1世の時代に成熟を遂げた。代表的な教会としては、首都を威圧する大円蓋(ドーム)式バシリカ建築のハギア・ソフィア聖堂や、内部の宗教画モザイク装飾の美しいラヴェンナのサン・ヴィターレ聖堂サンタポリナーレ・ヌオヴォ聖堂などがある。

ビザンツ美術は、8〜9世紀には聖像禁止政策の影響で一時衰退するが、マケドニア朝・コムネノス朝のもとで再興した。この11〜12世紀が、中期ビザンツ美術の全盛期であり、建築様式ではギリシア十字(正十字)形プランが主流となった。代表的なものに、アテネ近郊のダフニ修道院、パトモス島の聖ヨハネ修道院などがある。また内装のモザイクも、キリストの生涯の史伝に基づく十二祭礼からなる装飾体系が完成した。ビザンツ文化は、ギリシア正教の布教や交易をつうじて周辺地域にも波及し、各地にビザンツ式の教会建築やモザイク壁画を生んだ。11世紀に改築されたヴェネツィアのサン・マルコ聖堂、同じころキエフ公国のヤロスラフ1世により建立された聖ソフィア大聖堂(キエフ)などが有名である。

ビザンツ文化の歴史的意義
  • 第1にギリシアの古典をよく継承・保存したことである。それは、イスラーム世界に伝えられるとともに、イスラームをとおして12〜13世紀の西ヨーロッパにおける学問の発達(12世紀ルネサンス)を促し、さらにイタリア・ルネサンスの開花にも影響を与えた。
  • 第2に、東ヨーロッパ一帯に広がっていたスラヴ諸国にギリシア正教とビザンツ文化を伝えることにより、西ヨーロッパと異なる独自の東ヨーロッパ文化圏を形成したことである。とくに帝国滅亡後、その帝国理念や宗教はロシアにうけつがれ、ロシアは第三のローマとして東方正教会の中心を担うことになる。
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年表

前史
324年 – 395年
  • 330年 コンスタンティヌス1世がコンスタンティノープル(コンスタンティノポリス)に遷都
  • 324年 テトラルキアの内戦終結
  • 378年 ハドリアノポリスの戦いでウァレンスが敗死
  • 390年 テッサロニカの虐殺 ゴート族逮捕のため、テオドシウス1世が派遣した軍によるギリシア史上最初の虐殺
前期
395年 – 610年頃
東ローマ帝国 テオドシウスの城壁
テオドシウスの城壁 ©Hiro-o
  • 395年 ローマ帝国最後の皇帝・テオドシウス1世死去。東ローマ帝国をアルカディウス、西ローマ帝国をホノリウスが継ぐ。
  • 401年 – 450年 東ローマ帝国テオドシウス朝第2代皇帝・テオドシウス2世
    • パンノニアに本拠地を置いたフン族王・アッティラにたびたび侵入される。
    • 大城壁テオドシウスの城壁を建設し、ゲルマン人やゴート人に対する防御力を高める。
  • 450年 – 457年 第3代皇帝・マルキアヌス
    • 451年 カルケドン公会議を開催し、第2エフェソス公会議以来の問題となっていたエウテュケスの唱えるエウテュケス主義や単性説を改めて異端として避け、三位一体を支持し、東西教会の分裂を避ける事に尽力する。
    • 453年 フン族王・アッティラの急死によりフン族の弱体化により、フン族への献金を打ち切る。
  • 476年 西ローマ帝国滅亡
  • 491年 – 518年 アナスタシウス1世 単性論寄りの宗教政策によりカトリック教会と対立。ローマ教皇フェリクス3世に破門され東西教会分裂。
  • 518年 – 527年 ユスティヌス1世
中期
610年頃 – 1204年
  • 608年にカルタゴのアフリカ総督・大ヘラクレイオスが反乱を起こし、610年にカルタゴ総督・大ヘラクレイオスの子のヘラクレイオス(在位 : 610年 – 641年)が皇帝に即位した。ヘラクレイオスは、西突厥の二度にわたる戦争(第二次ペルソ・テュルク戦争、第三次ペルソ・テュルク戦争)に助けられ、シリア・エジプトへ侵攻したサーサーン朝ペルシアをニネヴェの戦い (627年)で破るなどして東ローマ・サーサーン戦争 (602年-628年)に勝利し、領土を奪回することに成功した。627年にハザールを主力とする「東のテュルク」と同盟を結んだが、628年に統葉護可汗が殺され、後継者問題にゆれる西突厥との同盟関係は失われた。
  • 636年 – ヤルムークの戦い:東ローマ帝国とその同盟国のガッサーン朝が、正統カリフ勢力のアラブ軍とヨルダン川の支流のヤルムーク川で激突した戦い。この戦いに完勝した正統カリフ勢力によって東ローマ帝国のシリア支配は終わりを告げ、預言者ムハンマドの死後始まったイスラームの「大征服」時代の幕開けとなった。これ以後、キリスト教の影響が強かったレバント地方は急速にイスラーム化が進む。
後期
1204年 – 1453年
  • 1223年 – 1299年 モンゴル襲来
  • 1453年 メフメト2世率いるオスマン帝国により滅亡

東ローマ帝国歴代王一覧

東ローマ帝国 皇帝 在位
テオドシウス朝 アルカディウス 395-408
テオドシウス2世 408-450
マルキアヌス 450-457
レオ朝 レオ1世(東ローマ皇帝) 457-474
レオ2世(東ローマ皇帝) 474
ゼノン(東ローマ皇帝) 474-475
バシリスクス(対立皇帝) 475-476
ゼノン(復位) 476-491
断絶
アナスタシウス1世 491-518
ユスティニアヌス朝 ユスティヌス1世 518-527
ユスティニアヌス1世 527-565
ユスティヌス2世 565-578
ティベリウス2世 578-582
マウリキウス 582-602
フォカス 602-610
ヘラクレイオス朝 ヘラクレイオス 610-641
コンスタンティノス3世 641
ヘラクロナス 641
コンスタンス2世 641-668
コンスタンティノス4世 668-685
ユスティニアノス2世 685-694
レオンティオス 695-698
ティベリオス3世 698-705
ユスティニアノス2世(復位) 705-711
断絶
フィリピコス・バルダネス 711-713
アナスタシオス2世 713-715
テオドシオス3世 715-717
イサウリア朝(シリア朝) レオン3世 717-741
コンスタンティノス5世 741-775
レオーン4世 775-780
コンスタンティノス6世 780-797
エイレーネー(東ローマ女帝) 797-802
断絶
ニケフォロス1世 802-811
スタウラキオス 811
ミカエル1世ランガベ 811-813
レオーン5世 813-820
アモリア朝 ミカエル2世 820-829
テオフィロス 829-842
ミカエル3世 842-867
マケドニア朝 バシレイオス1世 867-886
レオーン6世 886-912
アレクサンドロス(東ローマ皇帝) 912-913
コンスタンティノス7世 913-959
ロマノス1世レカペノス 920-944
ロマノス2世 959-963
ニケフォロス2世フォカス 963-969
ヨハネス1世ツィミスケス 969-976
バシレイオス2世 976-1025
コンスタンティノス8世 1025-1028
ロマノス3世アルギュロス 1028-1034
ミカエル4世 1034-1041
ミカエル5世 1041-1042
ゾエ 1042
テオドラ(東ローマ女帝)(共同皇帝) 1042
コンスタンティノス9世モノマコス 1042-1055
テオドラ(東ローマ女帝)(復位) 1055-1056
断絶
ミカエル6世ストラティオティコス 1056-1057
イサキオス1世コムネノス 1057-1059
ドゥーカス朝 コンスタンティノス10世ドゥーカス 1059-1067
エウドキア・マクレンボリティサ 1067-1068
ロマノス4世ディオゲネス 1068-1071
ミカエル7世ドゥーカス 1071-1078
ニケフォロス3世ボタネイアテス 1078-1081
コムネノス朝 アレクシオス1世コムネノス 1081-1118
ヨハネス2世コムネノス 1118-1143
マヌエル1世コムネノス 1143-1180
アレクシオス2世コムネノス 1180-1183
アンドロニコス1世コムネノス 1183-1185
アンゲロス朝 イサキオス2世アンゲロス 1185-1195
アレクシオス3世アンゲロス 1195-1203
イサキオス2世アンゲロス(復位) 1203
アレクシオス4世アンゲロス 1203-1204
アレクシオス5世ドゥーカス 1204
コンスタンティノス・ラスカリス 1204
ラスカリス朝 テオドロス1世ラスカリス 1205-1222
ヨハネス3世ドゥーカス・ヴァタツェス 1222-1254
テオドロス2世ラスカリス 1254-1258
ヨハネス4世ラスカリス 1258-1261
パレオロゴス朝 ミカエル8世パレオロゴス 1261-1282
アンドロニコス2世パレオロゴス 1282-1328
ミカエル9世パレオロゴス(共同皇帝) 1294-1320
アンドロニコス3世パレオロゴス 1328-1341
ヨハネス5世パレオロゴス 1341-1376
ヨハネス6世カンタクゼノス 1347-1354
マタイオス・カンタクゼノス(共同皇帝) 1353-1357
アンドロニコス4世パレオロゴス 1376-1379
ヨハネス5世パレオロゴス(復位) 1379-1391
ヨハネス7世パレオロゴス(対立皇帝) 1390
ヨハネス5世パレオロゴス(復位) 1391
マヌエル2世パレオロゴス 1391-1425
ヨハネス8世パレオロゴス 1425-1448
コンスタンティノス11世 1448-1453

トルコ・イラン世界の展開図

33. トルコ・イラン世界の展開図
33. トルコ・イラン世界の展開図 ©世界の歴史まっぷ
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