雍正帝 ようせいてい( A.D.1678〜A.D.1735)
清の第5代皇帝(在位1722〜1735)。軍機処の設置や八旗制改革をおこない、綱紀粛正と思想統制を進めて君主独裁体制を強化した。対外的にはロシアとキャフタ条約を結び、キリスト教布教を禁止した。
雍正帝
清の第5代皇帝(在位1722〜1735)。軍機処の設置や八旗制改革をおこない、綱紀粛正と思想統制を進めて君主独裁体制を強化した。対外的にはロシアとキャフタ条約を結び、キリスト教布教を禁止した。
後継者争いを防止
44歳で清朝第5代皇帝に即位。生前に後継者を書いた詔書を封印しておく「蜜建の法」を始めた。皇帝直属の諮問機関「軍機処」を設置。皇帝独裁制を強化。キリスト教を禁じた。
アジア諸地域の繁栄
清代の中国と隣接諸地域
清朝の統治
清の皇帝は満州族のリーダーであるとともに、中国歴代王朝の伝統をつぐ中華皇帝でもあり、また内モンゴルのチャハル部を平定した際に元朝の皇室に伝わったという玉璽を手に入れたことからモンゴル帝国のハンの継承者として臨み、さらにはチベット仏教の外護者(大施主)でもあった。つまり清の皇帝は「多面的な顔」をあわせもった君主といえる。清はその前半期、康熙帝のあと、雍正帝(世宗 位1722〜1735)、乾隆帝(高宗 位1735〜1795)と明君が続き、その約130年間は清朝の最盛期であり、彼らはそうした「多面的な顔」をもって独裁的な権力をふるった。
清は基本的に明の諸制度を採用しながら、支配体制を確立していった。清は国家の最高政務機関として、明以来の内閣と満州固有の議政王大臣をおき六部を統括していたが、雍正帝のときジュンガル部討伐の際設置された軍機房を正式に独立させて軍機処とし、数人の軍機大臣が皇帝の側近諮問要因として重要な政務を執り、内閣や議政王大臣にかわり実質的な最高決定機関となった。軍機大臣は、内閣大学士や六部の尚書(長官)などから満州人・漢人・が選ばれた。
清は征服者としての権威を保つため、威圧策として漢人に対し厳しい風俗の統制と思想弾圧をおこたらなかった。清に服従した証として、漢人の男性に辮髪を強制し、思想や言論に対しても厳しく取り締まった。康熙帝・雍正帝・乾隆帝が大規模な図書の編纂事業をおこし、学者や文化人を優遇したが、これは一面では中国内に残る異民族を敵視する書籍を、編纂作業の過程で検閲・没収する意味も含まれていた。またこの時期、文字の獄といわれる多くの筆禍事件がおき、さらに政府は満州人排斥思想(排満思想)を含む図書の刊行を禁止(禁書)し、白蓮教など民間の宗教を邪教として取り締まるなど、厳しい思想統制をおこなった。
文字の獄
文字の獄は、いわゆる筆禍事件のことで、ときの皇帝や朝廷に対して批判的な著述箇所があった場合、厳しい罰がくだされた。明の洪武帝も、厳しい文字の獄をおこしたが、清初の康熙帝・雍正帝・乾隆帝の3代におきた文字の獄はとくに有名である。清は征服王朝であることから、満州族を敵視する漢族の排満思想を抑えるため、少しでも政府や満州族を批判した著述をおこなったものを、徹底的に取り締まった。雍正帝の時代、江西省でおこなわれた科挙の試験官の査嗣庭は、試験に『詩経』のなかの一節の「維れ民の止るところ」と出題したところ、「維・止」の2字は、それぞれ雍正帝の「雍・正」の頭の部分を切り落としたものであり、朝廷に反抗する意思があるとみなされ、ただちに処刑された事件がおきている。
清朝支配の拡大
外モンゴルが清領となったことから、清はここでもロシアと国境を接することになった。そこで康熙帝のあとをついだ雍正帝は、1727年、ロシアとの間にキャフタ条約を結び、モンゴル方面の国境の画定、交易場の設置などを取り決めた。さらに青海のモンゴルの反乱を鎮圧し、青海やチベットの支配を確実なものとした。
雍正帝の皇位継承法
満州族には、ハンの継承者を生前に決めておく習慣がなく、ホンタイジや順治帝、康熙帝は兄弟から推されて皇位継承者となった。康熙帝は一時、中国風にならって皇太子を指名したが、兄弟争いがおこったため皇太子を決定しないまま世を去った。混乱の中で即位した雍正帝は、皇太子争いを防ぐため新しい方法を考案した。すなわち皇子らを学問所に入れ武道学芸をきそわせ、皇帝にふさわしい皇子を見定め、その名を記した書状を密封した箱に入れ、宮殿の玉座の背後にかけられた「正大光明(公正で堂々と潔白なこと)」という扁額のうしろにおき、皇帝の死後開封され、初めて後継者が指名されるというしくみである。この皇帝継承法を「蜜建の法」といい、以後うけつがれた。この法により最初に選ばれたのが、雍正帝の第4子、のちの乾隆帝である。
清代の社会経済と文化
税制
清朝の税制は、はじめ明朝の一条鞭法をうけついでおこなっていいたが、社会が安定し人口が増加すると、康熙帝は1711年の壮丁(成人)数を基準として、それ以降に増加した人口を盛世慈生人丁として丁税(人頭税)の課税対象から除外することを決めた。このため、それまで税から逃れていた人々が戸籍登録をおこなうようになり、人口が飛躍的に増大した。こうして人頭税にあたる丁銀(丁税)の定数が固定化されると、丁銀を地銀(土地税)のなかにくりこむことが可能となり、次の雍正帝のとき、丁銀を地銀にくりこんで一括徴収する地丁銀制が成立し、さらに乾隆帝の時代に全国へ広がった。地丁銀制は、それまでの人頭税の徴収が廃止され、土地のみを対象とした税制が確立したことを意味する。
清初の編纂事業
清は異民族王朝であるが、積極的に中国文化を重視した。中でも康熙帝・雍正帝・乾隆帝の3皇帝は、豊かな財力を背景に学芸を奨励して漢人学者を優遇し、多くの大規模な編纂事業をおこした。康熙帝時代には明朝の歴史書である『明史』(322巻、完成は乾隆帝時代)や『康熙字典』(42巻)・『佩文韻府』(106巻)などの辞書類、古今の文献から関係事項をとりだして分類した類書の『古今図書集成』(1万巻、雍正帝のとき完成)が編纂され、乾隆帝時代には『四庫全書』(7万9582巻)と、満州・漢・蒙(モンゴル)・蔵(チベット)・回(トルコ)の各語を対比させた辞書の『五体清文鑑』が編纂された。
清が漢人学者を動員してこのような大規模な図書の編纂事業をおこなわせたのは、学者を編纂事業に没頭させて政治的な関心から目をそらせるとともに、中国内に残る異民族を敵視する反清的図書を検閲・没収する意味が含まれていた。ことに『四庫全書』編纂の際には、539種・1万3800巻あまりが禁書として焼却された。
宣教師の来航
イタリア人ジュゼッペ・カスティリオーネ(郎世寧 1688〜1766)は、1715年北京に入り、康熙帝・雍正帝・乾隆帝の3皇帝に仕えた。彼は油絵や写実的技法、さらに遠近法・明暗法などの技法を伝え、中国絵画に大きな影響を与えた。また、乾隆帝が北京郊外につくらせた離宮である円明園内の西洋風宮殿・庭園の設計にも加わった。
典礼問題
明末から清初に中国に来航したイエズス会宣教師は、積極的に西洋学術などを紹介しながら布教活動をおこない、その結果、明末には15万人もの信者が数えられるようになった。それは彼らが中国内での布教活動促進の一手段として、中国の伝統文化を重んじ、中国語を習得して古典を研究し、自ら儒学者の服装を着用したからである。さらに彼らは、儒教でいう天帝・上帝はキリスト教の神(デウス Deus)と同じであるとして、中国人信者が依然としてやめない孔子の崇拝や祖先の祭祀などの伝統的儀礼(典礼)をも容認したのである。
ところが、イエズス会宣教師により遅れて中国へ来航したドミニコ派やフランチェスコ派の宣教師たちは、こうしたイエズス会の布教活動に対し、キリスト教の教義に違反するものであるとして激しく非難し、ローマ教皇に訴えた。これを「典礼問題」といい、激しい論争の結果、クレメンス11世(ローマ教皇)は1704年、中国の典礼を受け入れたイエズス会の布教活動を禁じた。これを知った康熙帝は大いに怒り、典礼を認めるイエズス会宣教師以外の布教活動を禁じ、他派の宣教師を追放する決定をくだした。さらに雍正帝は、福建省でおきたドミニコ派宣教師に関する事件をきっかけに、1724年キリスト教布教禁止の命をだした。このため、朝廷において学問や芸術などの特殊な仕事に関わっている宣教師以外は中国移住が認められず、マカオに追放となった。
清代歴代皇帝
清朝歴代皇帝
廟号 | 名(愛新覚羅氏) | 在位時期 | 年号 | 備考 | |
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太祖 | ヌルハチ | 努爾哈赤 ヌルハチ | 1616年 - 1626年 | 天命 | 清の前身である後金皇帝 |
太宗 | ホンタイジ | 皇太極 ホンタイジ | 1627年 - 1643年 | 天聡 崇徳 | ヌルハチの第8子。後金を清とする。 |
世祖 | 順治帝 | 福臨 | 1644年 - 1661年 | 順治 | ホンタイジの第9子 |
聖祖 | 康熙帝 | 玄燁 | 1662年 - 1722年 | 康熙 | 順治帝の第3子 |
世宗 | 雍正帝 | 胤禛 | 1723年 - 1735年 | 雍正 | 康熙帝の第4子 |
高宗 | 乾隆帝 | 弘暦 | 1736年 - 1795年 | 乾隆 | 雍正帝の第4子 |
仁宗 | 嘉慶帝 | 永(顒) | 1796年 - 1820年 | 嘉慶 | 乾隆帝の第15子 |
宣宗 | 道光帝 | 旻寧 | 1821年 - 1850年 | 道光 | 嘉慶帝の第2子 |
文宗 | 咸豊帝 | 奕詝 | 1851年 - 1861年 | 咸豊 | 道光帝の第4子 |
穆宗 | 同治帝 | 載淳 | 1862年 - 1874年 | (祺祥) 同治 | 咸豊帝の長子 |
徳宗 | 光緒帝 | 載 | 1875年 - 1908年 | 光緒 | 醇親王奕譞の第2子 |
愛新覚羅溥儀 | 溥儀 | 1908年 - 1912年 | 宣統 | 醇親王載の長子 |