テューダー朝 (チューダー朝)
イングランド王国(1485年〜1603年)およびアイルランド王国(1541年〜1603年)の王朝。バラ戦争でヨーク朝を倒して王位を得たヘンリー7世(イングランド王)から未婚のまま没したエリザベス1世(イングランド女王)までのイギリス絶対王政全盛期の王朝。ヘンリー8世(イングランド王)がイギリス国教会を成立させた。
テューダー朝
歴代国王
- ヘンリー7世(イングランド王)
- ヘンリー8世(イングランド王)
- エドワード6世(イングランド王)
- ジェーン・グレイ(イングランド女王)
- メアリー1世(イングランド女王)
- フィリップ1世(スペイン王)
- エリザベス1世(イングランド女王)
ヨーロッパ世界の形成と発展
西ヨーロッパ中世世界の変容
バラ戦争とイギリスの集権化
1455年、エドワード3世(イングランド王)の曾孫ヨーク公リチャード(のちのリチャード3世(イングランド王))は、ランカスター家に対してヨーク家の王位継承権を主張して決起した。百年戦争のために大量の家臣団を抱えて不満を持つ有力貴族は、それぞれランカスター家ないしヨーク家について、散発的ながらも30年にわたり戦いをくりひろげた。戦況はヨーク家の優勢に展開し、リチャードの戦死後その子エドワード4世(イングランド王)によりヨーク朝が開かれた(1461)。
その後ランカスター派は一時勢力を盛り返し、ヘンリー6世(イングランド王)を復位させた(1470〜1471)が、まもなく態勢を立て直したヨーク派の前に敗れ去った。しかしエドワード4世(イングランド王)の死(1483)後内乱が再発、ランカスター家の血をひくヘンリー・テューダー(リッチモンド伯)は、衆望を担ってヨーク朝の新王リチャード3世(イングランド王)と戦い、ボズワースで彼を敗死させた(1485)。まもなく伯はヘンリー7世(イングランド王)を称し、テューダー朝(1485〜1603)を開いた。そして、翌年ヨーク家の王女エリザベスと結婚し、両派の和解を成立させた。
ヘンリー7世(イングランド王)は、封建貴族の勢力を打破するために家臣団を解散、貨幣と度量衡を統一して商品流通の円滑化をはかったほか、国王直属の特別裁判所として星室庁を設置するなど、集権化を推し進めた。こうして、イギリスはテューダー朝の成立とともに中世史に終わりを告げ、絶対王政の時代に移行していった。
近代ヨーロッパの成立
宗教改革
イギリス国教会の成立
イギリス(イングランド)では、バラ戦争の終結後成立したテューダー朝のもとで中央集権化が進められ絶対王政が成立した。伝統的な信仰にとらわれている広範な民衆がいる一方、ルターの改革思想に共鳴し、また教皇のイギリス教会支配や教会による富の保有に批判的な国民意識も醸成されつつあった。イギリスの宗教改革は、絶対王政の政治的・経済的利害に動かされたものではあったが、イギリスの国民意識や利害感情のうえにたち、国内でこれを支持する人々も多くいたのである。
ヘンリー8世(イングランド王)(位1509〜1547)は伝統の信仰に忠実で、ローマ教皇から「信仰の擁護者」の称号を与えられていた。彼は、兄の死後その妻であったスペインのアラゴン王家出身のキャサリン・オブ・アラゴンを妃に迎えたが嫡子に恵まれず、彼女と離婚し、宮廷の若い侍女アン・ブーリンとの結婚を望んだ。しかし、スペイン国王兼ドイツ皇帝カール5世(神聖ローマ皇帝)の伯母でもあるキャサリンとの結婚の解消は、教皇の承認をえられなかった。
結婚問題について別の解決を求めたヘンリー8世(イングランド王)は、ケンブリッジ大学教授トマス・クランマーの示唆により、キャサリンとの結婚を無効とし、クランマーをカンタベリ大司教にし、アンとの結婚の合法性を認めさせた。これに対し教皇が破門をもって応えると、1534年国王至上法(首長法)を発布し、国王をイギリス国教会の唯一最高の首長とし、ローマから分離したイギリス国教会を成立させた。これに反対した『ユートピア』の著者として名高いトマス・モアらは処刑された。さらにヘンリー8世は、王の首長権を拒否した多数の修道院に圧迫を加えたばかりでなく、さらにその財産奪取を目的に修道院を解散させた。修道院の財産の没収によって、王室の財政基盤は強化された。教会組織としてはカトリックから独立していたが、イギリス国教会は教義や儀式などの点で、カトリックの伝統を多く残していた。当時イギリスでは、教皇の権威の復活を望むカトリックもいたが、教義や儀式では根本的改革は望まず、ただイギリスの教会を教皇の支配から切り離すことで満足していた人々が多数を占めていた。しかし、大陸の宗教改革のように、教義その他でいっそうの改革を進めようとする人々もいた。
次のエドワード6世(イングランド王)(位1547〜1553)の時代、英語で書かれた共通祈祷書や信仰箇条が制定され、国教会にもカルヴァン派の教義がとりいれられたが、それは旧教と新教の中間的な特色をもつものであった。エドワードのあと即位したメアリ1世(イングランド女王)(位1553〜1558)は離婚されたキャサリンの娘であった。彼女はカトリックを復活し、ローマとの関係を回復し、旧教国スペインの王子フェリペ(のちのフェリペ2世(スペイン王))と結婚した。反カトリックの「異端」に対する厳しい弾圧は「ブラッディ・メアリー」の名を残し、イギリス人の間に反教皇的な傾向を助長させることとなった。
不人気なメアリー1世(イングランド女王)の死後、1558年アン・ブーリンの娘エリザベス1世(イングランド女王)(位1558〜1603)が即位した。彼女は国王至上法を復活し、統一法で共通祈祷書の使用を義務づけ、儀礼・礼拝の形式を定め、イギリスを再び国教会にもどした。さらに1571年、39カ条の信仰箇条が定められた。これが現在でもイギリス国教会の教義の綱領の役目を果たしている。
15〜18世紀のヨーロッパでは、封建的領主層の没落、超国家的権威としての教皇権の衰退、イタリア戦争などにみられる諸国家間の覇権争いなどをつうじて、各国の国内の一元的支配が強められ、内外に対する絶対的権力としての主権国家が形成された。権力はまず王に集中し、その絶対的権力は王権神授説で正当化された。こうした体制を絶対王政と呼ぶ。王朝による領土拡大、富の獲得をめぐる競争は、王朝的対立からさらに主権国家の間の複雑な国際関係、国際政治の世界を形づくっていくことになる。
イベリア半島でレコンキスタ運動をつうじて絶対王政国家を形成したポルトガル・スペインが新航路開拓による貿易独占、植民地経営で栄えた。特にハプスブルク朝スペインは、16世紀にヨーロッパ・アメリカ大陸・アジアにまたがる大帝国をつくったが、やがて新勢力の前に没落を余儀なくされた。このスペインからの独立を達成したオランダは、その海軍力を強化し、17世紀前半には東アジア貿易における海上支配権を獲得した。テューダー朝のもとで絶対王政を確立したイギリスも、スペインに挑戦した。無敵艦隊撃破はイギリスの海上覇権獲得の第一歩であった。
17世紀前半は、「ヨーロッパの全般的危機」のもとで、スペインの衰退、ピューリタン革命、名誉革命とつづくイギリスの内乱と混乱、宗教戦争後ブルボン朝のもとで絶対王政を固めつつあったフランスのフロンドの乱、ドイツにおける三十年戦争など動揺が続いた。しかし、17世紀後半フランスではルイ14世(フランス王)のもとで強力な絶対王政が出現した。イギリスでは名誉革命をへて、議会政治が確立された。三十年戦争が集結したドイツでは、プロイセン、オーストリアが絶対王政国家として力をのばしつつあった。18世紀にはロマノフ朝ロシアがこれに続いた。一方、絶対王政のもとでバロック・ロココなど華やかな宮廷文化・貴族文化が形成され、学問でも近代ヨーロッパの思想・科学の基礎が確立した。
絶対王政下の諸国家は、ヨーロッパで領土拡大をめぐって対立すると同時に、アメリカ大陸・アジアの植民地獲得をめぐっても激しい抗争をくりかえした。17世紀中期のオランダ・イギリス戦争、ルイ14世の侵略戦争と並行して展開された17〜18世紀のイギリス・フランスの植民地抗争(英仏植民地戦争)などである。植民地抗争では、最終的にはイギリスが覇権を握ることになった。
ヨーロッパ主権国家体制の展開
15〜18世紀のヨーロッパでは、封建的領主層の没落、超国家的権威としての教皇権の衰退、イタリア戦争などにみられる諸国家間の覇権争いなどをつうじて、各国の国内の一元的支配が強められ、内外に対する絶対的権力としての主権国家が形成された。権力はまず王に集中し、その絶対的権力は王権神授説で正当化された。こうした体制を絶対王政と呼ぶ。王朝による領土拡大、富の獲得をめぐる競争は、王朝的対立からさらに主権国家の間の複雑な国際関係、国際政治の世界を形づくっていくことになる。
イベリア半島でレコンキスタ運動をつうじて絶対王政国家を形成したポルトガル・スペインが新航路開拓による貿易独占、植民地経営で栄えた。特にハプスブルク朝スペインは、16世紀にヨーロッパ・アメリカ大陸・アジアにまたがる大帝国をつくったが、やがて新勢力の前に没落を余儀なくされた。このスペインからの独立を達成したオランダは、その海軍力を強化し、17世紀前半には東アジア貿易における海上支配権を獲得した。テューダー朝のもとで絶対王政を確立したイギリスも、スペインに挑戦した。無敵艦隊撃破はイギリスの海上覇権獲得の第一歩であった。
17世紀前半は、「ヨーロッパの全般的危機」のもとで、スペインの衰退、ピューリタン革命、名誉革命とつづくイギリスの内乱と混乱、宗教戦争後ブルボン朝のもとで絶対王政を固めつつあったフランスのフロンドの乱、ドイツにおける三十年戦争など動揺が続いた。しかし、17世紀後半フランスではルイ14世(フランス王)のもとで強力な絶対王政が出現した。イギリスでは名誉革命をへて、議会政治が確立された。三十年戦争が集結したドイツでは、プロイセン、オーストリアが絶対王政国家として力をのばしつつあった。18世紀にはロマノフ朝ロシアがこれに続いた。一方、絶対王政のもとでバロック・ロココなど華やかな宮廷文化・貴族文化が形成され、学問でも近代ヨーロッパの思想・科学の基礎が確立した。
絶対王政下の諸国家は、ヨーロッパで領土拡大をめぐって対立すると同時に、アメリカ大陸・アジアの植民地獲得をめぐっても激しい抗争をくりかえした。17世紀中期のオランダ・イギリス戦争、ルイ14世の侵略戦争と並行して展開された17〜18世紀のイギリス・フランスの植民地抗争(英仏植民地戦争)などである。植民地抗争では、最終的にはイギリスが覇権を握ることになった。
ヨーロッパ主権国家体制の形成
イギリス絶対王政の確立と社会
中世末のイギリスでは、フランスとの百年戦争( ヴァロワ朝の成立と前期百年戦争)と、つづいておこった大きな内乱であるバラ戦争( バラ戦争とイギリスの集権化)によって、由緒正しい封建貴族の多くが没落した。これにかわって、騎士階層や商人・富農などからでたジェントリ gentry と呼ばれる地主階級が勢力を強めた。
バラ戦争の混乱を収拾して登場したテューダー朝のヘンリー7世(イングランド王)(位1485〜1509)( バラ戦争とイギリスの集権化)は、星室庁裁判所を改組して治安の維持に努めるなど、絶対王政の傾向を強めた。その際、彼は官僚としてジェントリを重用して、封建貴族を牽制した。以後のイギリス社会では、ジェントリと貴族が共にジェントルマン gentleman と呼ばれ、政治・社会・文化などあらゆる面で主導権を握るようになる。
中央の議会では、貴族が貴族院(上院)、主としてジェントリの代表が選挙で選ばれて庶民院(下院)を構成し、地方の政治も貴族や治安判事などに任命されたジェントリが牛耳ることになった。このようなジェントルマンの権威は、少なくとも産業革命までは変わることがなかった。
次のヘンリー8世(イングランド王)(位1509〜1547)( イギリス国教会の成立)は、この方向をさらに推し進め、イギリスに絶対王政を確立した。すなわちヘンリー8世は、離婚問題で教皇と対立すると、1534年に国王至上法を成立させてローマ教皇庁と断絶した。そのうえでみずからイギリス国教会の首長となり、イギリスにおける宗教改革を進めた。
この結果、十分の一税や初収入税など、教会関係の税収はローマに上納されるのではなく、イギリス国王の手におさめられることになった。そのうえ彼は、イギリス全土に膨大な土地を所有した修道院を解体してその所有を没収し、王室財政を一挙に強化した( イギリス国教会の成立)。これが絶対王政の確立に決定的な意味をもった。イギリスの宗教改革は、教皇からイギリスの教会に関する一切の法的権力を奪い、教会の首長としての国王の権力を強めたが、国教会の教義内容はカトリックと大差がないままであった。したがって、よりいっそうの改革を望む人々(やがてピューリタンと呼ばれるようになる)、カトリックの復活を望む人々と国教会との間で、以後名誉革命まで長期にわたる確執がくりかえされた。
中央集権化を急速に推し進め、宗教改革を断行して近代国家の基礎をきずいた。個人的には、最初の妻のキャサリンを離婚したばかりか、次妃アン・ブーリンを処刑するなど、激しい性格でもあった。
イギリス宗教改革はまた、対外的にはカトリックの牙城であり、ローマ教皇庁の強力な後ろ盾となっていたスペインとの対立を意味した。イギリスとスペインの関係は、のちにイギリスをカトリックに復帰させ、フェリペ2世(スペイン王)と結婚したメアリー1世(イングランド女王)のごく短い治世をのぞいて改善はされなかった。
経済的には、ヘンリー8世の時代のイギリスは、アントウェルペンむけの毛織物輸出が急速に成長し、毛織物工業が発展した。このため、原料の羊毛生産を目指した「囲い込み」(エンクロージャー)がさかんになったが、このことは折からのインフレーションと重なって、農民に不安を与え、社会を動揺させた。
囲い込み
「囲い込み」とは、境界のはっきりしない「解放耕地」の形態をとっていた耕地や共有地を統合し、垣根などで囲って個人の所有地とすることである。16世紀(第1次)のそれは、羊毛生産のため、耕地を牧場に転換し、18世紀前後の「第2次囲い込み」は、食糧の増産を目的とした。しかし、どちらの場合も、放牧などに使う共有地がなくなり、農民はこれまでどおりの生活は続けられなくなった。ヘンリー8世時代の著名な聖職者トマス・モアが、その著書『ユートピア』のなかで、これを「羊が人間を食う」ものだとして批判したのはよく知られている。ただし、16世紀の場合は、囲い込みの影響をうけた農民はごく一部にすぎないし、18世紀のそれでは、囲い込みのあとでは農業労働者の数そのものは増加しているケースもある。
イギリス立憲政治の発達
ピューリタン(清教徒)改革
イギリスでエリザベス1世(イングランド女王)が未婚のまま没すると、テューダー朝の血統が絶えた。このため1603年、スコットランド王ジェームズ6世がジェームズ1世(イングランド王)(位1603〜1625)として迎えられ、ここにステュアート朝が開かれた。これ以後、1707年に正式に合同するまで、両国は「同君連合」のかたちをとる。彼は長年のスペインとの対立を解消し、平和主義者とみられたが、外国人の国王でもあり、その支持基盤はきわめてもろかった。王権神授説を唱え、専制政治に走ったのも、むしろその弱さの表れとみられている。
エリザベス時代以来、国内はジェントルマン階層とともに、ヨーマンと呼ばれた比較的豊かな農民や商工業者が力をもつようになり、彼らを中心にピューリタニズムの信仰が広まった。彼らが、とくに議会に結集する傾向を示すと、ジェームズ1世はいっそう強圧的な政治で対抗したため、両者の対立が激化した。